川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

塗りこむ色の力業-節子嬉しやー

 七月になって、松坂屋美術館に、生誕百年記念の『三岸節子展』を見に行った。

 この前『三岸節子展』を見たのは一九九一年、やはり松坂屋美術館だったが、当時まだ彼女は存命していたのだから、あれからもう十年以上経ってしまったのかと、移ろう時の早さにたじろぐ。

 あの時見た絵が、今度もかなり出ていて、親しみを覚える一方、初めて眼にする出展作に、新鮮で予想外の衝撃を受けた。新たな面白さが得られたのは、勿怪の幸いというものだ。尤も、この前の『三岸節子展』は、私にとっては初めてのもので、それなりの期待もあったのだが、彼女の作品はそれに充分応えてくれ、その時初めて、三岸節子の力量というものを納得させられたものだった。

 あの時、凡そ十点を越すヴェネチアの建物と運河の水を描いた作品が並んでいて、どれ一つとして同じ色の水がない表現の面白さに、随分心遊んだのだが、中でも、「細い運河」という一点の前では、思わずはっと息を呑んだもので、それは今も鮮明に記憶している。

 古びたヴェネチアの、暗褐色の建物と建物の間の、その建物の影を暗く落す細い運河の淀んだ水に、建物の合間に僅かに覗く開かれた空が、白く細長く写っている。その白と脇に引かれた一本の線の青色とが、一〇一瞬にして、ヴェネチアという街の実存的真景を私に伝えた。

 彼女の描いたヴェネチアの絵は、建物の間の運河の水ヘの拘りを物語っていて、「小運河の家」や「下弦の月」の運河の水も悪くはなかったが、私にはこの「細い運河」の水彼女の拘りが最もよく結晶して示されているように思われた。縦長の画面の下三分の一の右寄りに、僅かの幅で切り取るように縦に塗られた白と細い青色は、それを齎している建物よりも遥かに不動の物に見えた。節子にとって、ヴェネチアは、恐らく水こそが不変絶対のもので、建物のごときは、それに比べれば影のように覚束ない存在に思われていたのかも知れない。それは私にとっては面白い一つの教示だった。

 扠、今度の展覧会を見て何日か後に、「緑」の人達が表紙絵を取りに来てくれた。皆でお茶を喫しながら、談たまたま三岸節子展の話に及んだ時、見て来たYさんは、最晩年の桜の花の大作の美事さを緩めた。「さいたさいたさくらがさいた」と題した作品のことである。その絵は、死の前年に描かれた、一三〇センチ×一六〇センチの大作で、闇の中に抽象化された桜の花が、画面一杯渦巻くように描かれている。迚も九三歳の老女の筆とは思われぬ力強い筆刷けの作品だった。肉厚に桜のボリュームを描き出すことに成功しているその絵には、私も目を留め、足を止めたのだが、立ち止まって正面から受け止め直すと、闇の中に桜の力と美とを認め、それを精神的に昇華させるこの手法が、日本画の世界では、既に伝統と化すほどになっていることが頭を過り、その意味で節子の独自性よりも、彼女の日本人らしさの表現のように思われた。私の見知っている作品だけでも、大観の六曲一双の大作「夜桜」、魁夷の「花明り」、元宋の「臘月帯雨」などのことが、こういう時に限って思い出されたりするものだ。そんなことがあって、私は、Yさんには悪かったが、桜より、一番最後に飾られていた、「花」という絵のバックの赤の方が凄かったと言った。些か勢い込んだ私の言い方は、一寸座をシラケさせたが、そこは、Yさんたちの方が遥かに大人で、子供のやんちゃを聞き宥めあやすような塩梅で、さりげなく場を執り成してくれる。

 だが、私には、決してごり押しのこじつけではなく、確かに「花」の赤は素晴らしかったのだ。しかもこの七OX六○センチほどの絵が、彼女が没した一九九九(平成一一)年の作品だということになれば、遺筆と言っていいのかも知れないのだが、死の直前に、点々と白く咲く小さな花の枝の群れの背景を、これ程の赤で、一分の隙もなくしっかり塗り込めることができたことに、私はその時、節子の、緊張の切れない力業をずしりと、しかも軽やかに受け止めえたのである。

 ずしりとした力業に感じるのは、その赤が、あれこれに節子が長年拘り塗ってきた多量の赤の、最後の集約になっていることに思いを遣ったからだ。全く、ヴェネチアの建物の壁面や、ヴェロンやアンダルシアの家々の屋根に、節子はどれだけ拘った赤を塗り重ねて来ただろうか。無論彼女は画面に溢れるほどの赤い花群れの絵も何点か描いた。それが、最後に、キャンバス全体を赤色で支配するに至ったのだ。

 そして、その赤の不動の絶対性は、点々と群れ咲く花の枝の、動きの表現によって際立っている。これを逆に言えば、不動の赤によって花の命の動きが生きていることになるが、私にとっては、花の命そのものよりも、その背後の揺るがぬ赤の方が絵の核心に見えるのだ。同じことは、Yさんを感動させた、先の桜の絵についても言えることで、渦巻く桜の厚塗りの躍動は、闇の不動によって初めて浮上しているのであって、闇の深さこそが絵を支えている訳だ。

 と、こう書いてきて、節子の生涯というものは、前回感じた、ヴェネチアの不動の水でもそうだったが、そういう不動の色を塗り訊ねることの明け暮れだったのかと気づき、不思議に身軽になったような気分になる。

 この不動の絶対的な色彩の獲得は、私を唸り立ち止まらせたもう一点の絵においても際立っていた。その一点は、「摩周湖」であり、絵は六OX一一Oセンチ位の横長の絵だが、空と湖をびっしり塗り固めた緑色の深さに、空間が実際の絵のサイズよりずんと大きく実感される作品である。青く黒くタッチの動きを見せて描かれた、湖を取り巻く山や小さな島との折り合いも優れている。動きがあるはずの空と水が不動の姿に塗り固められ、不動の山や島が動的に描かれている面白さ。それあっての緑色の成功なのであろう。

 この絵は一九六五年、節子六〇歳の折に描かれているが、これを描いた北海道旅行によって、亡夫三岸好太郎の遺作を、全てその故郷である北海道に寄贈する決意を固めたらしい。北海道立三岸好太郎美術館が札幌に開館したのは二年後の六七年のことである。「摩周湖」の絵は、還暦を迎えた節子の、一つの転機を成果として残し得た傑作だと私には見える。

 その「摩周湖」の話などを一頻りお喋りしたところで、Yさんが、最初のところに展示してあった自画像の素晴らしさを口にした。描き方も違う小さな二点なのだが、私も、どちらも意地と哀しさとが暗い背景の中に浮かび出て、いい自画像だと思って見た。特に、オカッパ頭に赤い和服姿ので描かれた自画像の前に立った時には、それをこの前も見た懐かしさもあったからだろうが、図らずも、私の脳裏に三岸好太郎の描いた飾子像が浮かんできた。

 私が、生誕百年記念の『三岸好太郎展』を名古屋市美術館で見たのは、二〇〇三年の秋のことだ。それは、節子が贈って生まれた北海道立美術館所蔵の物による展覧会だった。私にとっては、初めて纏まって見る三岸好太郎だったのだが、そのとき、やはり初めの方に二点の節子像が飾られていて、一点はまるで岸田劉生が描いたのではないかと思われるような、黒のバックに赤いショールを纏った節子像だった。その少女っぽさの残る姿がひどくいじらしく、節子をいとおしむ好太郎の気持ちが偲ばれて、私の頬が緩んだものだ。

 節子の自画像は一九二四・五年の二人の結婚当初の頃描かれているのだが、好太郎の節子像も殆ど同じ時期に描かれたものだろうとは、自画像の和服姿が、着物の赤と背景の暗さにおいて、脳裏に蘇る好太郎の絵の節子の和服姿と、重なって見えることによって明らかであろう。

 私は、今度は素直にYさんの感想に共感を示すことが出来た。すると、Hさんが、「あの人、足が悪かったのですよね」と言葉を挟んだ。そうだった。節子が生まれつき股関節を脱臼していたことは、かつて私も仄聞して知っていた。「そうでしたね」、そう言って私は、節子の足を引いて傾き歩く姿を想像した。そして、好太郎の飾子像と今度眼にした節子の自画像四点を脳裏に並べ、今からもう八十年もの昔、まだ十九歳の足の悪い節子と二十一歳の好太郎の、まだそれほど収入がある訳でもなかったであろう二人が、東京の一隅で、小さなキャンバスに向かって格闘していたであろう、小さな暮らしの中の油絵の具の匂いを、私は嗅ぎ・どこまでがわたくしなのか木に登る。尾崎志津子寄せようとした。と同時に、彼女の背負った股関節の運命が、自分の色を塗り込め造るエネルギーと化し、画家としての自らを決定的にしてきたであろう、九十余年のその生涯のことを思い遣った。

 死の直前、「花」の赤を塗りながら、自画像の赤を塗った遠い日を、節子は脳裏に蘇らせることがあったのだろうか、そうも私は思い遣った。

 

追記

夏休みに、私はシチリアへ出掛けた。タオルミーナでは古代ギリシア劇場を見物するはずだったが、都合で見ることが出来なくなった。その劇場跡からのエトナ山とタオルミーナの海を望む絵葉書的構図の互いに異なる節子の二枚の絵を、二つの展覧会で見ているのだが、お蔭でその劇場の壁の赤への拘りを、実景によって確かめることは出来なかった。ただ、七十年も前、そのエトナ山へ登った野上弥生子のことを思うだけだった。

(二〇〇五、九、五)




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