川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

ゴッホ讃歌

 今更ゴッホ賛歌でもあるまいと思いはするが・・。

 炎暑の最中、義理を立てるような気分で『ゴッホ展|孤高の画家の原風景』を観に出掛けた。夏休みのせいでもあろうが、入場者に占める若い人達の比率がかなり高く、若者のゴッホ人気は、当節も昔に変わらぬもののように思われた。

 この若者達と同じように、半世紀以上前には、私も高校生だったわけだが、その頃の私にとって、ゴッホは、三好十郎の戯曲の影響もあって、「炎の人」という語のイメージで捉えられた、詩的憧憬の対象としての慕わしい存在だった。何よりもその慕わしさは、劇団民芸が上演した舞台における、ゴッホを演じた滝沢修によって決定付けられていた。私には今も、滝沢の口ごもるような低い、しかしよく微る台詞回しが懐かしい・・・・・。

 そして、いつの間にか画集などで見慣れてしまっている、ゴッホの自画像や、ひまわりや、糸杉の絵が、その多彩な色の編み合わせと、躊躇うかのようでいて力のある波打ちうねる筆の運びとを通して、紛れもなく、「炎の人」ゴッホの命のリズムとでもいうものを、私たちに響き伝えていた。それは同時に、その絵が語る情熱の人ゴッホが、その生涯において、洗練やスマートからは縁遠く、不器用で不格好な、「癖(へき)」を通り越した、文字通りの「熱中症(あの頃こんな言葉はなかった)」的存在だったことを直覚させもしていた。

 そういえば、芥川龍之介も、「オズの糸杉や太陽」から「何か切迫したもの」「何か僕等の魂の底から必死に表現を求めているもの」の「誘惑」を感じていたと、『文芸的な、余りに文芸的な』の中で言っていた。自分に振り回される自分に逢着している若者ならば、こういうゴッホ像に、魅力と親しみを抱かない訳はあるまいと、それこそ、ゴッホが屡々陥ったように、私も独善的な解釈に陥ってしまうのだが、なにはともあれ、不器用者ゴッホへの若者の親呢ムードが、今後とも、私にとって、願わしい現象であることに変わりはない。

 しかし、そんな私が初めてゴッホ展を見たのは、漸く一九七七年の早春のこと、オランダの国立ヴァン・ゴッホ美術館所蔵作品による『ヴァン・ゴッホ展』(愛知県美術館だったが、油彩を中心にした色彩画三〇点と、鉛筆やチョークで描かれた七〇点のスケッチや素描とで成り立っていた。その時私は、既に不惑を過ぎていたのだが、まるで少年のように胸を時めかせて観に行き、その感激もだし難く、得々と教室でそれを語り、それに嵌まった学生の一人|||彼女は防府から来ていた寮生で、卒業後故郷へ戻って仕事につき家庭も持ったはずだが、今どうしているのだろう|||が早速観てきた感想を研究室まで語りにきてくれたことを思い出す。

 その二年後の一九七九年秋には、「ゴッホとその時代の画家たち」と題した『一九世紀オランダ絵画展』(愛知県美術館)が開かれた。油彩・水彩の色彩画七点とスケッチ三点の一〇点のゴッホ作品が出展されていた。一〇点のうち八点が国立ヴァン・ゴッホ美術館のものだった。

 三回目は一九八五年末に開かれた『ゴッホ展』(名古屋市博物館)で、これは油彩画五五点、水彩画一〇点、スケッチや素描三四点、それに二点の手紙を含めて、世界各地から集められた個人蔵の作品まで含め、百一点で催された大々的なものだった。このうち、ゴッホ美術館から一八点、同じオランダのクレラーミュラー美術館からは一五点が出展されていた。

 四回目は、九六年早春のことで、油彩三二点、水彩一〇点、鉛筆・チョークなどによるスケッチ三一点、全てクレラーミュラー美術館所蔵のものによる『ゴッホ展』(名古屋市美術館)だった。

 五回目は、二〇〇四年、これも名古屋市美術館で開かれた『ゴッホ、ミレーとバルビゾンの画家たち』と題した展覧会で、ゴッホの絵は、国の内外から、油彩一五点、スケッチ八点が集められていたが、ゴッホ美術館からの借用は一〇点だった。

 そして今回である。私は名古屋で開かれたゴッホ展の一切を見逃さないできたつもりでいるが、これだけ度重なれば今更なことで、聊か義理立て気分になったとしても咎められはすまい。繰り返されてきたゴッホ展の事態は、最早彼の絵を展示すれば展覧会として事足るような呑気なものではなくなっていよう。それが、今度の展覧会の構成によく出ていた。

 その生涯を、「宗教から芸術へ」「農民の労働、芸術のメタファー」「パリ―闇から光へ」「アルルーユートピア」「サン=レミ、オーヴェール=シュル=オワーズ」の五つに分け、それぞれをゴッホの作品だけではなく、同時代の関係のある画家たちの作品、ゴッホの読んだ書籍等の資料、彼の作品に影響を齎した日本の浮世絵資料等、全てゴッホ美術館とクレラー・ミュラー美術館の所蔵品によって、彼の人間的実態が伺えるように構成展示されていた。尤も、お蔭で当のゴッホの油彩画は三十点に過ぎなくなっているのだが・・・。

 しかし、絵が好きで展覧会を楽しむ者にとっては、どんな面白い絵に出会えたかが一番肝心なことだが、そういう点からすれば、今度のゴッホ展で、私にとっての収穫は、アルルで描かれた有名な「夜のカフェテラス」に出会えたことだった。クレラーミュラー美術館を訪ねた時、この作品は展示されていなくて、今度が初めてのお目見えで、それだけに、私には新鮮な瑞々しさがあったことになる。

 パリとは違う田舎町の、灯りに照らされたカフェテラスの侘しさが、夜の街の建物と、何よりもその星空との対照によってよく出ており、テラスの前の通りを歩く人の姿も、鄙びたアルルの町の物寂しさを強調していて妙である。何よりも夜の青の、絵の具の油の艶が、この絵の命の息遣いを決定付けている。日本画の絵の具では、この艶を出すことは不可能だと確信出来る魅力である。

 そういえば、その書簡集の中で、アルルへ来てからゴッホは言っていた。「僕は自問するのだ、何故空のあの光った点々は、地図の黒い点々の様には近付けないものなのか、と。タラスコンやルーアンに行くのに汽車に乗るなら、星に行く。には死に乗ればよいではないか。生きているうちは星には行けないし、死んで了っては汽車には乗れない」(小林秀雄『ゴッホの手紙』)と。そしてアルル以前に、ゴッホに星の絵はないのではないか。とすれば、アルルで「種蒔く人」や「向日葵」を描いたゴッホに、太陽の輝きばかりをイメージするのは間違っているというものだ。太陽の輝きを描いた反面、星に死を重ね見ていたもう一面のゴッホの精神の状況があったことも知っておかねばならぬだろう。それが、この初めての星空の夜の絵の寂しさになって結晶したのだと考えるなら、絵の青い絵の具の輝きの魅力に私は納得が行く。

 全く、会場でこの絵に辿り着くまで、「聖書のある静物」「職エ窓のある部屋」「馬鈴薯を食べる人々」「モンマルトルのムーラン・ド・ラ・ギャレット」「モンマルトルの菜園の「眺め」「石膏像のある静物」「種蒔く人」などは、みなこれまでの展覧会で既見のものばかりで新たな関心も起きず、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」も、モネの風車の絵と並べられると、モネに軍配をあげたくなり、点描で描いた初見の「レストランの内部」も、シニャックやリュスの点描画と併置されれば、その都会的洗練には程遠い無様さが目立つばかり、僅かに、英泉の浮世絵を模して描いた「花魁」を面白く見た位だった。

 その経緯があったればこそ、一層「夜のカフェテラス」の星空の青色が、私を惹き付けることになったのかもしれないと考えると、この喜びは一寸割り引きしておかねばなるまい。と、いささか喜びが覚めかかる。

 そして、ふと、友人のSが、かつてゴッホの描いたアルルの跳ね橋を訪ね、このカフェテラスでコーヒーを飲んで一服して来た自慢話を、さりげなく話してくれたことを思い出し、煩が自然に緩んできた。と同時に、このカフェテラスは、ゴッホが、彼の執拗な誘いを断り切れずにやってきたゴーギャンとの共同生活ーー芸術家同志が食事も共にするような共同生活なぞ、私には成立するはずがないと思われるのに、それを大真面目にやってしまうところに、ゴッホの危なっかしさが伺えよう――が上手くゆかず、ゴーギャンが、向日葵の絵を描くゴッホの肖像画を描き上げた夜、アブサンの入ったコップをゴーギャンに叩きつけた場所でもあったことを思い出した。そしてあの描かれた星が語りかけてくる孤独な寂しさとでもいうものに、もう一度帰って行く私の気分に、私は身を任せ乍ら会場を後にしたものである。そしてこれも賛歌。

(二〇〇五、八、三一)

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