川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

蝋燭の炎の陰にージョルジュ・ドゥ・ラ・トゥール展ー

 一体、ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥールの絵を、私はい つ頃知ったのだろう。いずれ、知ったのは画集からだろう が、それが、どういう画集で、いつ頃まで遡ることなのか、まるで靄の彼方である。しかし、その名が、彼の二枚の絵と共に決定的に私に印象づけられてきたことだけは確かだ。

 一枚は、大工と思しき頭の光った髭面の老人が、上体を 屈め、足で踏まえた角材にドリル(どうか電動の器具など イメージしないでほしい)で穴を穿っていて、その前で、 木箱に腰掛けた少年が、右手に蝋燭を持ち、左手をその炎 に翳しながら、作業する老人の手元を照らしている絵であ る。今一枚も蝋燭の灯りに照らし出された人物画で、二脚 ある椅子の左のそれに、燃える蝋燭の燭台が置かれ、右の 椅子には、胸をはだけた下着だけの妊婦が、燭台の方を向 いて腰掛け、孕んだ腹のところに置いた両の親指で、捉え た蚤を潰そうとしている絵である。

 前のは「大工聖ヨセフ」という絵だが、見た瞬間、少年 ーー言うまでもなくキリストということになるーーの蝋燭 に翳した左手の指が、その炎の光で赤く透けて見える表現 の見事さにまず眼が皿と化し、炎に照らし出された禿げ頭 の初老のヨセフの太く逞しい腕、顔面から頭部へかけての 明暗、白く浮き出た少年の顔が、ほの暗い全体の中で一挙 に揺らめき動くかと錯覚してしまう出来栄え。画題を確か めずとも、そこには、宗教的な敬虔さが、緊張を伴って漂 っている。一方「蛋をとる女」の方は、妊婦であることと いい、しどけない下着姿であることといい、蛋をとる仕草 といい、全て表に現すべきではない蔭=褻の日常を、次の 中に照らし出し浮上させるという、破廉恥な意図の上に成 り立っている作品で、蝋燭の灯に浮かび上がったその妊婦 の殆ど無知な顔立ちと相俟って、見苦しい秘匿すべき世界の一瞬を露に固定して不思議な静謐さを伝えてくる作品で ある。

 この二枚以外に私にラ・トゥールの絵の印象はなく、こ の二点だけが絵の図柄もはっきりとその名と共に記憶され て、私のラ・トゥール評価を揺るがぬものにしてしまって いる。何の所為でその二枚の絵が記されることになった のか。それは蝋燭の炎による陰影の強調と、その灯りの橙色の豊かな階調が齎す温もりによっている。かほど美しく 蝋燭の灯りの魅力を顕現して見せた絵を私は他に知らない。ラ・トゥールは、私にとって、敬虔なものと無恥なものとを闇の中に照らし出す、蝋燭の炎の画家となったのである。

 蝋燭の炎というものは、描かれれば炎は静止する。しか し炎であるからには、描き止められた次の瞬間には、揺れ 動くはずのものである。炎は揺れ動くものであるという絶 対的な認識が、描き止められ静止した炎によって、それに 照らされ揺れ動く世界を、一瞬のうちに連想現出させる。 揺れ動いて見えるものこそが現実で、描き止められ静止し た写実の炎の世界の方は、有り得ない捏造された虚構に過 ぎない。そしてその捏造された虚構が、揺れ動く世界の有 り得ない静止を通じて、静謐な空気の緊張を生み出し、そ の意味で、まさに聖なる空間を創出する。それがラ・トゥールの語る絵の絡繰りというものであろう。だから、彼の 絵が示す静寂な敬虔さというものは、言ってみれば彼の写 実的技巧の妙を極めた詐術の上に成り立っていることになる。

 私は、ラ・トゥールという人物について、十七世紀のフ ランスの画家という以外何も知らない。しかし、私は、こ のような詐術の芸を見事成し遂げて見せる人物に、画聖と いう言葉のイメージを重ねることは出来ない。ラ・トゥー ルとほぼ同時代、彼と同じように光と影の画家としての声 望を今日擅にしているカラヴァッジョが、教会を飾る幾多 の宗教画の傑作を残しながら、殺人まで犯す非道無頼な生 活にその命を縮めたことを思えば、ラ・トゥールに聖者の 生をイメージすることは、私には難しくなる。そして、そ れだからこそまた、ラ・トゥールの松の有難みが生じもす る。

 そのラ・トゥールの個展が、上野の国立西洋美術館にく るというのだ。ウッソー!

 私はその企画が成立すること自体に仰天した。今日、ラ ファエッロ展やボッティチェルリ展の開催を想定し得ない のと同様、ラ・トゥール展の成立など、信じられなかった のだ。そういえば、二〇〇一(平成一三)年に催された 『カラヴァッジョ」展なども、私には耳を疑う驚きだった が、それでも、副題に「バロック絵画の先駆者たち」と銘 打ち、カラヴァッジョの作品八点に、その追随者二十名の 作品三一点を併せて、漸く成立させたものだった。そのカ ラヴァッジョの八点の陳列にさえ、私は足の震えるほど興 奮し、都立庭園美術館だけではすまず、岡崎の美術博物館 へも重ねて見に行ったほどだったのである。ところが、国立西洋美術館がラ・トゥールの真作「型トマス」を入手したのを機に、そのお披露目をかねて、彼の展覧会を企画し、その現存作品四十余点のうち、十七点を借り集めて実施にまで漕ぎ着けたというのである。チラシに「日本で初の、そしておそらくは相当な長い将来にわたって再び見ることはないであろう」とあるのも尤もな話で、冥土への土産になるかどうかはいざ知らず、千載一遇とはこのこと、何は措いても逃してなるものかと、見に行くことに決めたのである。

 幸い、このところ恒例になっている春の旅行は、妻とス ペインへ出掛けることにしていて、成田からの発着になっ ていたから、その帰途、上野へ寄ってラ・トゥール展を観 ようと妻と語らったのである。そしてその通り、観た。

 十八点の真作とラ・トゥール工房の作一点と十点の模作、 以上の形画の他にラトリールの絵を模した同版面三点 と彼の素描二点、併せて三十四点の出展だった。「蛋をとる女」はその真筆が、「大工聖ョセフ」についてはその模作が出展されていた。模作とはいえ、私の記憶する「大工聖ヨセフ」の印象を裏切ることのない出来栄えである。

 それにしても、目を疑うほどの徹底した模作がこのよう に造られているということはどういうことか。それを思う だけでもラ・トゥールへの関心が深まるのだが、何しろ目 前の絵そのものの面白さが、余念への拘りを許さない。

 まず、西洋美術館が入手した「聖トマス」やロートレッ ク美術館から来た「聖ユダ」の半身像、その禿げ頭髭面の 老人の眼光の表現に魅入られ、金貨の袋の周りに顔を集める男たちを描いた「金の支払い」(ウクライナ、リヴォフ美 術館)や「大工聖ョセフ」と相似た印象を流す老人と天使(だと思われる)を描いた「聖ヨセフの夢」(ナント市立美術館)の、ラ・トゥールの面目躍如たる、蝋燭の炎によって間の中に浮かび上がる人物たちに魅入られて、絵の具刷け具合まで気になり、ついつい顔が画面に吸い寄せられる有り様。そして、その極め付け、私を釘付けにし金縛りにした、一点に私は出会う。その絵は題して「ダイヤのエ ースを持ついかさま師」といい、一〇〇X一五〇センチ程 の横長の作品で、無論真筆である。

 絵は、漆黒の闇を背に、四角いテーブルを囲んでトラン プ・ゲームをする四人の人物を描いている。右端に美しく 整った身形の女性的な顔立ちの若者が、トランプを手に左 向きに座り、左端にはいかさま師がその若者の方を向いて、肘を立てた右手に手持ちカードを三枚持ち、左手を背後に回してベルトに挟んだダイヤのエースを抜き出しているのだが、その表情は蔭になってさりげない。そしてこの二人の間に二人の女性が描かれており、一人は正面右手にこちらを向いて座した中年女、今一人はその左側に中年女の方に顔を寄せて立つ若い女である。中年女はカードを左手に、その豊胸に真珠の首飾りを纏い、ツルリとした卵形の顔に流眄をじろり、左側の若い女に注ぎ上げている。その流眄を受け止めて、若い女は目尻に瞳を片寄せていかさま師に合図を送っている、そういう図柄である。光りは画面左から差し込む趣で、人物の衣装や帽子などはその細部に亙って克明に艶やかに描かれ、描かれた光景の焦点に流眄の中年女の顔がある。そして、このテーブルの上に蝋燭の火は ない。

 その実物に出会ったことはないが、私は、カラヴァッジ ョ展の図録の彼の全作紹介の中に、同じトランプゲームの いかさま場面を描いた絵があったのを思い出した。あれは 対角線を生かした画面構成による動きのスピード感に特徴 があったーーと、今ラ・トゥールの絵を目の前にして気付 いたことだーーのだが、これは、ノッペリ顔の中年女のい かさまの眼差しによって悪意そのものの表現になっている ところに特徴があった。目に見えるような悪意では、悪意 の怖さと言うよりその滑稽になりかねないが、にも拘らず この中年女の流眄は、悪意や色気というものの、つまり人 間の負の魅力というものを見事描いて見せた傑作ということになろう。

 私は、その瞳に見据えられたわけではないのに、中年女 の流眄が、聖ヨセフや少年イエスにもまして、老い先少ないこの私に消し難い印象をのこすことになるだろうと、何 故か確信してしまったのである。私を籠絡したラ・トゥー ルのこの中年女の色香に乾杯!

(二〇〇五、四、一)

 

 

 

 

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