川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

画惚眸美術展回遊記(二)

往事茫々中西利雄展

 

 あの頃、もう五十数年もの昔になるのだが、高校生だった僕は、美術部に席を置いていた。美術部に 籍を置いていたのは、同級生の部員に片足の悪い冷た<羨しい顔立ちの繹身の女性がいて、その彼女の近くに身を置けるからだった。個人的に言葉を交した記憶もないが、彼女には、人を寄せ付けない言葉の掛けにくい冷たさがあって、それが僕の彼女への気持ちを暗くかき立て続けていたその彼女は、もう、とうの昔、この世の人ではなくなっている。

 と言って、僕はまるで絵を描かなかったわけではない。しかし油絵は無論のこと、当時漸く新しく使われ始めていた不透明水彩の絵の具を用いて絵に挑むこともなく、昔ながらの透明水彩を使って、彩色のすっきりしない、画面の淀んだ 絵をいつも描いていた。第一、あの頃、僕の親に、息子の部活動のための画材などを買い与える余力などなかった。僕のポケットには小遣い鍼とてなく、中学の頃からの筆と透明水彩の十二色の絵の具で、着色する色の混ぜたり重ねたりにまるでそれが、自分の青春の実態であるかのように、いつも失敗しながら、うじうじと画用紙を使い重ねていた。

 そんな往時、美術の教科書だったか、美術雑誌だったか 出会ったのが、中四利雄の不燃明絵の具による水彩画だったそれは、沈井心や和田英作などの効明絵の具の水彩風景画を手本としてきた者にとって、文字通り目の覚めるような新鮮さだった。とりわけ、中西の女性像は、その頃僕の知っていた「金蓉」に代表される安井曾太郎の女性像に匹敵してさえ見えた。安井の女性像が油絵であるだけ、そして、不透明水彩の絵の具の使用が僕に適わなかった中西の水彩のそれに対する僕の敬愛の思いは過分に働いたに違いなかった。

 色を重ねても濁ったり淀んだりしない絵の具のけざやかさで、とりわけ上から白を用いて明度を際立たせる手法は、安井の油絵と等しい鮮やかな手際で、僕の目を見晴らせたのだった。

 僕は一遍に中西ファンになってしまった。しかし彼の絵を目のあたりにする幸せが僕に訪れることは、何故かこれまでになく、その名前も、高校時代の記憶と共に封じ込められた侭になっていた。

 その中西利雄の展覧会が催されるというのである。名前に纏わる記憶が油然と沸き返り、僕はとても放ってはおけなくなった。展覧会の催されるのは、神戸の人工の島、六甲アイランドの小磯良平記念美術館である。そこは、小磯の絵をいつも明るくたっぷり見ることが出来て、いかにも神戸という待ちに相応しい美術館だという好印線が僕にはあった。

 五月のある日、僕は一人で小磯良平記念美術館へ出掛けた。中西の絵は、全て彼の言う「水絵」ばかり、三つの部屋に六十点余が展示されていた。それに素描が二十数点と新聞小説の挿絵が十四、五点だったろうか。水絵の殆どは六〇×九〇センチ程の製作で、中に大きい作品が数点あったが、それとても九〇×一一〇センチぐらいのサイズに過ぎない。これは、僕の中西に寄せてきた愛着からすれば、始めての彼の作品展であったにも拘わらず、おゝと歓声をあげて歩を止めてしまうような壮観には遠いものだった。それには、この展示場に入る前、最初に小磯良平の常設展示の一室を通った、その直前の印象が影を落としてもいた。無論小磯の絵は金で油彩画であり、油彩であることによる絵面のテリが輝きを生んでいたし、「森」という作品の如きは、森の中に様々な男女を配した、九〇×一四〇センチにも及ぶ、物語性を持った大作でもあった。

 中西の水絵は、水絵ゆえに、どんなに爽やかに発色していようと絵の具の輝くテリを発してはいなかったし、彼の絵は 風景にしろ人物にしろ全てが写生で、ロマンなどとは縁がなかった。そう言えば、あの頃、教室から解放されて、専ら写生に出掛けられるのが、美術の時間の、僕らにおける最大の意義だったのだから、大袈裟に言えば、「写生」は、自由と解放の徴としての行為だったのだ。恐らくそういう「写生」への思いに絡んで、中西利雄の水彩画は、それまでの水彩からの脱出ということも含めて、あの頃の鬱屈した僕の憧れとなり得ていたのだろうと、この期に及んで腑に落ちもする。して腑に落ちもするところで、今、眼前、光彩乏しく見える中西の水彩画に、半世紀にも及んで、すっかり色褪せ遠ざかった時間の遥かさを、僕は実感させられているのだ。僕は寂しくなっていた。

 館内は入館者も少なく静だった。それにしろ、僕は中西 の絵を寂しい思いで見ようとは思ってもみなかった。しかし、この寂しい思いが、遠い日の僕の中西への眼差しを懐かしく引き寄せもする。すると、小振りで、油の照り返しを持たぬ画面ひそやかな、中西の絵の群れが、遠くに薄れ去っている僕にとって打ってつけの対象に思われてもくる。寂しに今度は涙が加わりそうになる。

 展示されていた中西の絵は、渡欧時代ーー一九二八年から三一年までの四年間、中西は主としてフランスで水絵製作を続けていたーーの風景画を中心とした前半の作品群と、帰国後の人物画を中心とした作品群とから成っていた。

 その風水画は、雨の日では屋外にキャンバスなど立てられないからとでも言わんばかりに、どれも、落としている影けざやかに描かれた晴れた日の光景ばかりで、雪後の街を描いた一点も含めて、その全てが明るい。日本画に典型的な雨蕭々の風景など、その気配さえない、全く乾燥した明るさである。しかも、その明るさは、風景が港であろうが山の手であろうが、西欧の建物と街路樹や公園の緑が構築する街の佇まいによって成り立っている。中西はカテドラルや宮殿を描きはせず、ひたすら市民の暮らす街の佇まいを描いている。つまり中西を捉えていた対象は都市の市民的景観だったのである。

 同じことは、人物画についても言えた。描かれる人物ーーその殆どが女性であるーーのいる場所は、カフェであり、婦人帽子店であり、そして、椅子とテーブルの応接室あるいはアトリエであって、畳のあるような和風の空間ではない。ヨーロッパから帰って五年経つ頃から、和服の女性像が描かれるようになるのだが、それも全て椅子に掛けて描かれていて、日本画のように座っている女性像など一点もない。しかも、その和服の柄は、その文様の大きいことと明るい色の鮮やかさとにおいて、控え目を美徳とする日本の女性の美の基準からは逸脱してしまっている。紛れもなく、西欧的な文化に支配され、それに導かれて作画してきた中西が、そこに見える。

 そして、僕の少学校時代、僕は町中の長屋で貧しい暮らしを強いられていたが、同じ長屋でも、文化住宅と銘打って喧伝されるそれもあって、そういう長屋は門とささやかな庭と、その庭に母屋から丸く張り出したりして、そこだけははっきり洋風の外見をなして設えられた応接間のある造りだった。その応接間にはきっと、オルガンや電気蓄音機が、なくてはならぬ必需品のように置かれていたりして、テーブルの傍らの椅子に掛けて紅茶等を喫するその家の娘さんなどをイメージすることができ、僕にとっては、憧れの、近しい「モダン」だった。そうした都会の街並と家の暮らしを語る小市民的なモダンこそが、中西利雄の絵に描かれ続けたものだったのだと、今日、その作品を通じてつくづく納得させられたのである。その中西の水彩画に、戦後の、僕などにも体験可能になるであろうモダンな暮らしを、僕は重ね見ていたのだ。

 しかし、彼の絵が徹底して写生である以上、それは将来の新しさを予見するような斬新さや冒険を表現し得る訳がなかった。にも拘らず、時代は、都市化とモダンの超激化大変貌 現象を、目まぐるしく次々この世に齎してきてしまった。しかも、中西本人は、その世の激しい変貌を見ることなく、一九四八(昭和二三)年、四七歳の生涯を閉じてしまっている。僕が中西の名を知ったとき彼は既に鬼籍に入っていたのだ。つまり、中西には、変貌する新しい時代の中で、自らの絵を問う機会を与えられなかった。恐らくそのために、写生と瞬く間に変貌してしまう現代という怪物とのギャップが、この五十年の間に中西の名前をすっかり埋もれさせてしまうことになったのではないか。そう言えば、安井曾太郎の名前だって、随分遠くなってしまっているように思われる。

 僕には中西利雄の纏まった作品展が、この先も開かれようとはとても思われなかった。とすれば、これが、僕の中西に会う最後となろう。僕は再び少し湿っぽくなる。出口の売店の横に、一寸高いコーヒーだったが喫茶蜜があったはずだ、そこで明るい通りを見ながら一服することにしようと、僕は足を急がせた。

 

 

 

 追記 中西の描いた女性像は、母を描いた一点を除いて全て若い女性たちだったが、美人画に属するような作品は皆無 だった。つまり中西が女性に見ようとしたものは彼女たちの個性といったもので、そういうものが、彼女らの着る和服の柄の目覚ましさと照応しているのだということに、後で気づいたが、さて、それにしても中西の水絵への拘り、中西の個 性というものは何だったのだろうと、それは人のままに残されている。

(二〇〇四、七、二五)

【この美術展回遊記は筆者提出の原文どおりです】

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