川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

ロートレック、心残りのままに

 二月に入って早々、我が家では浴室と便所の改装工事を始めた。旬日の間とは言え、毎日の人の出入りと工事の物音で私は落ち着きを失い、咽喉風邪を引き込んだのだが、工事が終わると共に、漸くそれも私から去ってくれる気配で、私は久しぶりの気晴らしに「ロートレックとモンマルトル」展でも観に行こうと外出することにした。二十四日の、それにしては、今にも雨の来そうな暗い午後のことである。

 私は、私の風邪を譲り受けて愚図ついている妻を残して、一人松坂屋美術館に出掛けた。揚げ句、直りそうな風邪を引き直すのではないかと疑うほどに落胆し、デパートの中を見歩く元気も失って、今にも降って来そうな暗い日暮れを、足取り重く帰宅する羽目になってしまった。

 展覧会のロートレックの出品作は、どれも観たものばかり。それもその筈、チラシを見れば、出展作はフランス国立図書館所蔵のものによるとあるのだが、そうだとしたら、一九九五年に大阪梅田の大丸ミュージアムで見た「ロートレック展」が、そのフランス国立図書館所蔵のものによる作品展だった筈だ。目新しいものが何一つなかったのは当然なことになる。加えて、黒い壁面の会場の照明が随分暗く―出展作品の殆どがリトグラフによる印刷物なのに、こんなに照明の光を落とさねばならぬのだろうか――晴れやかな見物を断固許さない仕組みになっていたのも、この結末を招くのに大きな効果があったことになろう。

 ところで、このグルメ時代に応えてであろうか、近頃テレビで、ロートレックの美食振りの紹介されることが多く、彼の残したレシピを使った豪華な料理が再現され、それを売りにするトゥールーズ地方のレストランが紹介されたりもした。ゴッホ等とは異なる、貴族育ちの彼の舌の贅が、不具の身で専らモンマルトルの暗がりに沈潜した存在としてイメージされてきていた彼を、このグルメ時代、華やいだ世界に救出し始めているのかも知れない。しかし、再生させられつつあるロートレックの新しいイメージを、私がこの展覧会から得ることは出来ない。

 思えば、トゥルーズ・ロートレックの名は、私には、殆どゴッホの名と等しい力で刻み付けられてきた。ジョン・ヒューストンの映画『赤い風車』を、封切りを待ち構えて観に行ったのを覚えているが、それが、ロートレックの伝記的作品であると知って触発された結果だったのは確かで、映画の封切りが一九五二(昭和二七)年なのだから、もう五十年以上も昔のことになる。大学に入って、アルバイトの収入で小遣いが出来るようになっていた私は、封切り映画も見に行けるようになっていたのだ。してみると、ロートレックへの親しみの感は、既に高校時代に醸成されていたことになるが、肝心の、ロートレックとの馴れ初めの経緯は、何故か確かでない。ただ、あの頃、式場隆三郎が、ゴッホの伝記や弟テオヘのゴッホの書簡を訳出出版したり、小林秀雄が、「ゴッホの手紙」を連載したり、滝沢修のゴッホ役で劇団民芸が上演した、三好十郎の『炎の人』が評判を呼んだりで、ゴッホ・ブームが起こっており、その縁でロートレックへの関心も自ずと培われたかと想像できる。現に、滝沢修の藤乍らの熱烈なファンでもあった私は、早速、『炎の人』の名古屋公演に、苦い顔の親爺に切符代をせびって出掛けたものだが、あの舞台にはロートレックも登場しており、それを演じた多々良純の名は、以後記憶に留められることにもなったのである。

 しかし、ロートレックへの親呢感が、『赤い風車』によって格段の増幅を見たことだけは確かで、それが、ホセ・ファーラーの名演に負うていることは言うまでもないが、何よりも、見知っているロートレックのポスターの人物像がムーランル―ジュの映像場面に見事に再現されていたからで、それは、この映像の現実をモデルにして、ロートレックのポスターが出来たと錯覚出来るほどの出来栄えだった。

 にも拘わらず、ロートレックの作品に出会うことは、印象派の作品展等に出展された数点による以外には、絶えて無いままに過ぎた。ゴッホの方は、その人気からも一九七七年に愛知県美術館で、オランダ国立ヴァン・ゴッホ美術館所蔵による「ヴァン・ゴッホ」展を見た折りに大満足し、学生達にも大いに喧伝したものだが、「ロートレック展」に会えたのは、『赤い風車』を見てから三十年後、ゴッホ展から更に五年後の一九八二年になってからだった。私は、それを新宿の伊勢丹美術館で、大きな期待を持って見たのだが、ゴッホ展が私に期待通りの喜びを齎したようには、期待に見合う作品の充実感を私に与えてはくれなかった。その時の落胆ははっきり覚えている。以後、見た三度のゴッホ展がいつも面白く見得たのに、ロートレックの方は以後三度共期待外れに終わって、昔彼に懐いた思い入れだけが、保証のない空手形のように、空しい残骸となって、心の澱のように残っているのである。

 一体、これはどうしたことだろう。確かにジャポニズムの影響による浮世絵的に平面化された色彩や、浮世絵の役者絵に見られるような誇張されたポーズの人物像に、ロートレックの面白さがあり、それを評価しない訳ではないが、同じように浮世絵の影響を受けながらも、ゴッホがあくまでその油彩画に、私にとっての西洋人らしさをこってり示してくれているのに対して、ロートレックには、彼が自らのレシビに示した肉汁たっぷりな高カロリー・高蛋白の料理に似合った西洋人らしさが、これまでの出展作には乏しく、そこに、こんな筈ではないという得心できぬ不満と、こってりした油彩画へのさらなる期待が、くすぶり沈澱するのだ、と言えばいいだろうか。ともかく、映画の『赤い風車』からしても、舞台の『炎の人』からしても、私の中には油絵的絵画こそを最も西洋的なものとする認識が出来上がってきていて、その私の認識を、ロートレックの展覧会は満たしてくれなかったということになる。 というより、そもそも、私の期待を満たすほどのきっちり描けた油彩画が、ロートレックに果たして何点あるのかと疑った方が良いのかも知れない。ましてや、一辺が一メートルを越すような大作ということになれば、それこそ霊々たるものではないのか。私がこれまで作品中で見た彼の油彩画の中で、一メートルを越す作品は、アルビのロートレック美術館所蔵の作品を主に企画された「ロートレック展」、初めて私が伊勢丹美術館で見た彼の展覧会にあった、『ムーラン街のサロンにて』と題するただ一点だけなのだから。ひょっとして、私は、ロートレックに無い物ねだりをしていることになるのかもしれない。と、思いはするのだが、さて・・・・・・。

 

 それから半月後、春休みを利用して、私は、例によって母を施設にショートステイで預け、夫婦でツアーに参加してスペインに行った。その、マドリッドでの自由時間、私達はティッセン美術館に出掛けた。個人の収集した作品としては質量共に群を抜く充実ぶりに、私は舌を巻いたが、そこでロートレックの油彩二点に出会ったのである。二点共、一辺が一メートルを越えることのない小品だが、私にはロートレックだと直ぐ分かった。一点は、暗い背景の中で、白いブラウスを着て俯いている赤毛の女の上半身を描いたものであり、もう一点は、黒い山高帽を被り、ステッキを持ち黒っぽいコート姿で立つ、赤茶色の口髭を蓄えたガストン・ボンヌフォワ。という細身の紳士を描いたものである。どちらもロートレックらしいパステル画風な彩色に特徴のある、しかもきっちり描きあげられた油絵である。特に、山高帽の紳士は、頻繁に描かれたムーラン・ルージュを扱ったリトグラフに、しばしば登場する紳士を連想させ、ロートレックらしさを感じさせて懐かしい。まるで、知人に出会ったような思いさえする。 

 私は、旅から帰って、書棚に展覧会の図録を当たってみた。すると「ティッセン・コレクション名作展」と銘打った『近代絵画の展開』という一冊が出てきた。展覧会は東京竹橋の国立近代美術館で一九八四年に開かれている。この時、ティッセン美術館は、まだスイスのルガノにあったことが図録から分かる。そして、ロートレックの二点共が、この図録に載っていた。マドリッドのティッセン美術館の膨大な作品の中で私が見逃さなかったのは、既にそれを私が見ていたからでもあったのだと納得し、その時の喜びには、既に見知っていた親しみが、預かって大きかったことにも気付いた。気付いて私はいささか冷め、冷めて再び、ロートレックへの満たされぬ思いが、宙づりのようになって残ることになった。

(二〇〇五、三、三一)




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