川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

横顔のリリシズム

 この画家の実作も、中西利雄の場合と同じく、これまで殆ど見たことがないまま過ぎてきた。だが、その名だけは別に私の耳に馴染み、今では、それが私に懐かしい響きを持つものとなっている点では、これまた中西の場合と同様だった。

 画家の名は、内田巌。画家としてのその名を、私は徳田秋声の『縮図』の挿絵を通じて認めていた。彼が描いた日本髪 の銀子像によって、私は秋声の作品の暗さにのめりこむことができたからである。しかし、『縮図』が巌の挿絵で都新聞に連載されたのは、昭和十六年のことだから、九歳の私がその新聞を見ている筈はなく、間違いなく私の二十代のことなのだが、『縮図』を読みつつその挿絵画家の名を認めたとき、あゝ、魯庵の息子ではないかと、すぐ反応したことだけは記憶に確かである。

 魯庵こと内田貫の短編『暮れの二十八日』短編集『社会 百面相』(いずれも岩波文庫)などを読む人など、もう今で はなくなってしまっているだろうが、社会主義的思潮が、戦 後の理念として多くの若者に渇仰されていた一九五〇年代、 その思潮を世に問うた明治の先駆的な作家として、内田魯庵 は、当時その評判を高めていたものだ。生意気盛りの文学青 年だった私が、こういう時流に溺れない訳がなかった。その 『社会百面相」の巻末に、厳は「非文士の父魯庵」の一文を 寄せ、猪野謙二はその「解説」の中で、内田巌の画家として の評価を、手際よく纏めていた。私はそれらによって、内田 巌の名を知っていたのである。

その、猪野謙二は、厳について次のように紹介していた。

 内田巌は(中略)大正末年の「種蒔く人」に参加し、日本美術会の創立に献身し、昭和二十三年には日本共産党に 入党した。その画風はもとアカデミックな沈静を特徴とするが、やがて西欧的な啓蒙主義を超えて日本的な現実にせまろうとする努力がみられるようになり、一時期の彼が根気よく描いた日本髪の女たちの素描などには、封建的な日本女性のみじめさに対する観察がエロティックな唯美主義 ともつれあうように混在していた。その晩年に至ってます ます若々しく、人間的な勇気と誠実な自己改造の努力に生き、既成画壇の頑強な黙殺をすこしも意に介せず、たたかう日本の民衆の表情と姿態とのモニュメンタルな表現を目ざして、困難な前進の姿勢を保ちつづけていた。ここには魯庵の人と文学との一面が鮮かに受けつがれ、それがまったく新しい条件の中で生かされていたのであるが、昭和二十八年七月、日本民衆の深い哀悼の中に病没したのである。

 その内田巌展の企画を、この春中西利雄展を見に行ったとき、私は知った。中西利雄展同様、これを逃せば二度と内田巌にまみえる事はないだろう。身のつまされる思いに私は駆り立てられ、十一月にまた六甲ライナーに乗って、小磯良平美術館に足を運んだのである。

 しかし、巌の絵は、何と利雄の絵の明るさに比べ暗いことだろう。既に初期の作品からそうなのだが、昭和五年に渡欧した滞欧期に入ると、風景画も人物画も一段と色彩の暗さに磨きがかかってくる。それは、中西利雄の場合とは正反対に見える。中西が、西欧の市民生活の都市空間に、日本にはない解放感を抱いて、己の色彩を乾いた大気の中に解き放つ喜びに浸ったとするならば、巌は、同じ空間に対して、解き放つことの出来ぬ、日本の現実に緊縛されている日本人としての自己を痛感せざるを得なかったということだろうか。時代と自我の意識から逃れられぬ自己を発見したと言えるだろうか。中西が四年間いたヨーロッパに、厳が僅か二年で別れを告げて帰国したのは、決して経済的理由などではあるまい。

 帰国後の厳の絵は、次第に暗鬱の度合いを増す昭和十年代の空気そのままに、何点かの少女像も子供たちの群像も、すべて活力を失ったうなだれた姿で描かれている。そんな無気力な命のポーズの連続に、額から額へと運ぶ私の足は次第に徒刑囚のようになっていく。その私の足を、部屋の角に掛かった三十センチに満たない小さな一点が、ぴたりと引き留めた。左向きの日本髪の女性の横顔が描かれている。一瞬『縮図』の銀子像が頭を掠める。画面の横顔に縦に一本ひびが走っているのが悔しいが、女性に対する作者の思い入れの優しさが、暗さの中にこぼれんばかりに匂っている絵だ。記されたカードの「横顔(妻静子の肖像)」の文字を読んで、私はホッとする。中西利雄にこういう匂う絵はなかった。無論以前語った、西欧の美女の横顔像にも感じることがなかったものだ。それは人のリリシズムそのものである。

 そのリリシズムは、私が体を右に開いて直ぐに目に飛び込んでくる、右を向いた母親の半身像へと引き継がれる。それは、露草を手に正面を向いて椅子にかけたもう一点の母親の半身像と並んで懸けられている。どちらも一メートル位の丈だが、暗い背景の中、黒っぽい和服に何も持たぬ横向きの座像の方が、描き手との間の緊張感が爽やかに伝わって気持ちがよい。と、思って、さらに歩を進めるーー私に期待の心が膨らみだしているーーと、今度は「M氏の肖像」「M夫人の肖像」という二点の横顔像に出会う。いつかも紹介したピエロ・デラ・フランチェスカのウルビーノ公夫妻の肖像画と同じように、夫は左向き、妻は右向きに描かれているが、ウルビーノ公夫妻と違って、権柄尽くなところが微塵もない穏やかな夫婦像である。こんな嫌みのない顔に老いたい願いが興りそうな、こちらの老醜を照出されかねない出来栄えである。そして更に、堂々とした左向きの谷崎潤一郎の和服姿の半身像の前に出る。それが堂々と見えるのは、画面左下に山を従え、朝日差す棚引く雲の空を背に、輝いて谷崎の横顔が描かれているからだ。そして、この絵を既に私は見ていたことに気づく。見たのは、芦屋の谷崎の記念館のはずである。そうだ。あそこには、確か安田靫彦の谷崎の肖像画があって、谷崎の風貌表現に示された靫彦の線描の確かさに感心させられたのだが、厳の絵は、多色の油絵のせいもあろうか、館内のごちゃごちゃした展示物とイメージが混在して、記憶の鮮明さを欠く羽目になったようだ。しかし、いま改めて見る目の前の谷崎像はなかなかのものだ。靫彦の谷崎の眼が油断のならぬ鋭いものだった記憶があるが、巌の描いた谷崎の瞳にそれはない。そして、そこがいい。これは、記念館では味わいえない展覧会というもののの御利益だろう。

 横顔への拘りは戦後になると、自分の娘をモデルとした作品へと続き、ついには「風」とか「ラ・ペ(平和)」とかの平和な時代の主題を体現する、若い女性の横顔像にまで至っている。しかし、そこから伺われるものは、娘たちをいとおしむ巌の眼差しの優しさそのものであって他ではない。面白いのは、何本もの赤旗を背に群がり立つ労働者を描いた、高さ 二メートルに及ぶ「歌声よ起これ」という大作があるのだが、その、何れも右を仰ぎ見て立っている男女の大勢の労働者の瞳には、闘争心がさっぱり伺われず、背景の暗雲とはためく赤旗だけが、争議の緊迫を語っている不思議な作品である。しかも、この絵、画面左下に、おさげ髪に赤いリボンをつけた一人の少女が描かれているのだが、少女は正面を向き、観る者にまるで当惑の視線を送っているかに見える。

 それにしても、横顔像にこれほど拘った日本の画家を私は寡聞にして知らない。一体、これは何を語るのだろう。横顔像が、絵の鑑賞者の眼差しをさりげなく拒むところに成り立つということは、「プロフィールの美女」で既に述べた。しかし、厳の場合は、正面切って相手と視線を交わすことができぬ巌自身の気の優しさ、あるいは羞恥心の強さが、正面像を拒んでしまうように思われる。この気弱さが巌の横顔像のリリシズムになり、観る我々の心を癒す。しかし、それが、猪野謙二の言う「たたかう日本の民衆の表情と姿態のモニュメンタルな表現」に不向きであることは言うまでもない。無論それは本人の十分知悉することだ。「歌声よ起これ」の隅に描かれた正面向きの一人の少女は、その屈折したはにかみが齎したアイロニカルな結果だと見ることができる。そして私が、巌の父魯庵の文学作品に認めているものは、ほかならぬ、その屈折したはにかみを伴っての痛烈なアイロニーなのである。「魯庵の人と文学との一面が鮮やかに受けつがれ」たことにはなろう。以て瞑すべし。

 私は巌のために半分は安堵し、半分は悔やみながら、安定の悪い椅子に掛けているような気分のままで、まぶしい館外の光の中に我が身を戻した。

(二〇〇四、一一、二〇)

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