川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

夢二の寒さ騒がれてこそ

 私は一寸馬鹿にしていた。何しろ会場は美術館ではなく、客寄せの手段として設けられかねない百貨店の展示場であり、催されるのは、今もその客寄せにはそれなりの期待が持てそうな、竹久夢二の展覧会だったからである。

 断っておかねばならぬが、私は、夢二の、孤愁とも憂愁とも言える感傷的な作品に、彼の悲劇的とも浪漫的とも見える生涯を重ね見て、魅感を覚え続けてきた人間であり、その魅惑を感じ続けている自分の中に、根深く巣食うセンチメンタリズムを見出して苦笑せざるを得ない人間である。人間、安直なセンチメンタリズムに己を委ねて、束の間、世の憂さを紛らせたりす るものだとしたら、夢二は、そういう人間の一面を、まるで人間の本質であるかのごとく、絵画の文体に固定して見せた男だということになろう。

 だとすれば、この展覧会において、ミーハーを当てにする主催者の目論見は誠に当を得たもので、そうと分かれば、展覧会への熱意などにはお構いなく、六月初旬、私は当の「竹久夢二展」を見に高島屋へ出掛けたのである。

 そして、私は自らの盲に気づかされることになった。美術館ではない俄仕立ての手狭な展覧会場は、採みくちゃになるほどの大賑わいで、鑑賞のゆとりなどあったものではなかったが、その人込みのゆとりのなさも併せて、中々どうして、私の予想を見事裏切る充実した内容だと、満足する羽目に陥ったのである。私は、些かうろたえ、うろたえた末得心した。

 ところで、私を満足させたものが、夢二の作品だけの展示に終始しなかった、展示の仕方にあったことは確かだった。

 今度の夢二展は、夢二の生誕百二十年を記念しての、岡山の 夢二郷土美術館と伊香保の夢二記念館との始めての共催による もので、出展作品には充分期待が持てるのだが、絵画とデザインの二項目に分けての所謂作品展示の他に、「宵持草余話」の一項を特別に設けたり、「夢二の生涯」「夢二の交友」「夢二が 愛用した品々」といった項目を立て、項目毎の関係資料を多数展示し、それを辿り見て行けば、夢二という一人の人間を、その芸術と生の軌跡との中に混然感得できるよう仕組んだ、観客層を見越しての配慮があったのである。夢二の、邂逅と別離を 繰り返した三人の女性との遍歴と、凡そ根付くことのない放浪生活との展示資料は、観客のミーハー的物見高さを擽り、作品への共感を募らせるには格好の材料となったに違いない。

 とりわけ、「宵待草余話」の設定などは、大衆的存在としての夢二の展覧会に相応しい、週刊誌的発想と言っていい。「宵待草」のモデルである「おしまさん」こと、長谷川カタの写真や、歌が生まれた二人の出会いの場所、千葉県の海鹿島の写真などが、夢二の歌の楽譜絵と共に展示されたりすれば、そこに、夢見られたに過ぎぬ夢二の恋を、はかなく想像したくなろうというものだ。私なども、海鹿島の「宵待草」の時典の写真を見せられると、この詩碑をこそ訪ねたく思ってしまう。

 私が知る「宵待草」の詩碑は、岡山の後楽園の入口近く、旭川の提に立つもので、もう四十年以上もの昔、旅の途次、その碑を背に、月見草の生えた土手の草中に腰を下ろして休んだことがある。何の見栄えもない旭川の川向こう、平坦に広がるだけの田園風景に、夏の宵、来ぬ人を待って女が佇むにしては、余りにも情緒の欠けた場所のように私には思われたものだ。

 それにしても、この歌、実際持ったのは夢二の方であって、おしまさんではなかったのに、女の立場に身を置いて男を待つ歌を詠む、そういう、自ら身をくねらせるような、性の倒錯を楽しみ歌うところがあって、そこに気づくなら、それが、夢二の女のくねくねスタイルになってもいるのだし、女達が、肉欲的官能的セクシャリティとは無縁な色気で描かれてもいるわけだと、気づいたりもすることになる。そういえば、夢二の投稿 原稿が始めて読売新聞に掲載されたとき、筆名は「竹久子」だ ったそうだが、それはまるで女性を思わせるペンネームである。

 あの日、旭川畔の詩碑に幻滅した私は、まだ出来て間がなかった夢二美術館にも足を運んだのだが、美術館は、街から離れて新しく開かれた一角に、とんがり屋根の上に風見鶏を乗せた赤レンガ造りの童話的風合いでポツンと建っていた。その小さな建物の内部には、殆ど軸装の絵が並べ掛けられているだけで、誰もおらず、閑散とした貧弱な四角の部屋の中に身を置くと、先程の、碑の傍の土手での感覚が、一挙に惻々とした侘しさとなって私を包み込んでしまったものだ。夢二の絵は、待てど来ぬ人を待ちあぐねて、小さな容器に、ひっそり萎れたまま活けられた花のようなものだった。

 それから今日まで、竹久夢二の展覧会で見覚えのあるのは、私には、梅田の大丸ミュージアムで催された、河村コレクションの『竹久夢二展』(一九九一年)ぐらいのものだったが、岡山の夢二美術館で味わった侘しさは、その時も改められはしなかった。二百点を越す出展作品の充実ぶりー「旅」と題した湖畔の樹下に憩う男女を描いた屏風絵、「青春譜」「黄八丈」の代表的油彩度、「長崎十二景」「女十題」の全作などが出ていたーーだったにも係わらず、大丸ミュージアムの展覧会場としてのゆったりしたスペースが、空虚な空間となって私の中に広がっていったものである。

 それにしても、今度は大変な入場者、しかも圧倒的に女性、それも多くは中年以後の御婦人方で、男性は十人に一人か二人、私の肩身の狭いことは夥しい。私は、専ら女性たちの肩越しに 作品を見なければならず、その化粧の匂いを蒸れ嗅ぎながら、次第に気づき始めていた。夢二の作品は、儚げに描かれた女性たちが、現実の女性たちに騒々しく囲まれてこそ、その存在感が生まれることになるのではないか、ということである。

 夢二の絵の殆どは人物、それも若い女性を描いたものだが、とりわけ夢二の軸装の絵の多くは、多彩でも濃厚でもない淡く弱々しく描かれた女性ばかりで、その弱々しい姿に加えて、その上下に残された広い空白が、絵の儚さを醸成し、絵そのものの存在を希薄にするのに大きく作用してもいる。そればかりではない。そういう夢二の絵は、たとえ暖色で彩色されていようと、あのくねくねのせいで、温もりの薄い寒さを特徴としている。

 そういえば、夢二は自分の絵を「楷、行、草」における「草画」だと呼んだとは聞いているが、その「草画」について、恩 地孝四郎が「名もなき草、かえりみられざる草、用にたたぬ草、そういった風な情感での草の意をも托したのであろう」と言っていることを、島田康寛が図録の中で紹介している。そして絵が、返り見られぬ草の如く希薄で低温であればあるほど、濃密で温暖な気配を誘う。そして、誘われ集い、夢二の絵をとりとめなく囲む人々の騒々しい体温の生々しさが、夢二の絵の希薄低温の実態を際立たせ、夢二の絵の寂しさを浮上させることになる。弱々しい子供の甘えが母性をくすぐり誘うように、夢二の作品は機能し、それが機能してこその夢二展だということを知らされる。夢二の絵の大衆性は、そういう母性本能に支えられて成立しているものであり、岡山でも大丸ミュージアムでも、私が満たされ得なかったのは、そういう夢二の絵に相応しく、そこが機能していなかったからだと得心がゆく。

 歴とした美術館のようなゆとりを持たぬ手狭さが、この展覧会の実質的成功を齎した皮肉に、百貨店が気づいているかどうかは知らぬが、ともあれお手柄には違いない。

 展覧会の最終章は「夢二の生涯」だが、その最後は当然夢二の基碑の写真で締め括られている。墓碑は有島生馬が揮毫した「竹久夢二を埋む」の七文字を一行に刻した、高さ一メートルに満たぬ角のない丸く黒っぽい自然石である。

 雑司ヶ谷の基地のその墓に、私が詣でたのは、もう七・八年前の暮れのことだったと思うが、墓は、他の墓の整然とした並びから外れて、一基木立の根方に、やや傾くように立っていた。刻まれた生馬の言葉も墓石の佇まいもどこか不安定で落ち着きを欠いていて、いかにも夢二らしく拗ねている風情で、同じ墓地の中、踏ん反り返るように居丈高に立っていた漱石の墓に比べたら、どれほど好ましいものに思われたか知れなかった。

 騒がれる夢二の一時の異空間を出て、私は夢二伊香保記念館のチラシを手に取った。恐らく、蘆花のゆかりの地としての拘りも重なって、私は伊香保へ行きたくなった。そして、ちらと、それが適うときは訪れるのだろうかという危惧が頭を掠める。

(二〇〇四、七、一五)

 

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