川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

絢爛!絵巻又兵衛

 九月十九日のNHKの日曜美術館は、山下りんを取り上 げ、その生涯と、彼女が日本のロシア正教の教会に残した イコンの数々を紹介した。丁度、ツアーに参加してロシア を訪ね、エルミタージュ美府館は無論のこと、サンクトペテルブルグの街そのものに、例にない親近感を抱いて帰国 してまだ日も浅い、それはテレビ番組だった。番組は、二 十四歳のりんが、明治十四年(と言えば、まだ逍遥や二葉 亭の影すらない時期に)単身、ロシアに渡り、イコン画の 習得の傍ら、エルミタージュへ出掛けて作品の模写に努め たことや、不幸にもそれを教会から差し止められ、修道女 のような暮らしを余儀なくさせられてしまったことを語った。番組を見ながら、私は急いで山下りんの展覧会の図録を捜し出した。番組で紹介された作品の大半が図録には収まっており、それらの実物に出会ったのがもう五年も前のことだと知らされた。あゝ、もうそんなになるのだと、その五年の空しさが一瞬マントのようにふうわりと体を包み込み、私は侘しくなる。

 図録には、金蒔絵の立派な額に収まった『ハリストス復 活』の絵(それは白布を身に纏ったキリストが、石棺の縁 に復活して立ち、その前、両側に二人の天使が跪いている 図柄で、一八九一《明治二四≫年、例の大津事件で暗殺さ れかかったロシア皇太子ニコライの帰国に際して贈られた ものという)が載っており、それが三十センチ四方程の小 さな油彩画だったことを私は思い出す。同じ構図の絵が他 にも二、三点あったが、絵の優しい出来栄えと額縁の立派 さとで、それは何故か私にはいとおしい作品だった。改め て確かめると、それは今、エルミタージュ美術館の所有に なっていることが分かる。あの、かつて宮殿だった美しくも広大な美術館の、三百万点に上ると言われる膨大な収蔵 品の中に、私はりんのこの小さな一点が、日露外交の歴史 の一端を担って渡露し収められてきたことを思い遣る。す ると、彼女の存在さえ、恐らく彼女がイコン画家であった からであろう、日本の近代絵画史の中から消されてしまっ てきた事実と重なって、言いようのない切ない悲しみに結 晶する。その「山下りんとその時代展』を見たのが、千葉 市中央区役所の七階にある、千葉市美術館でのことだった のである。

 その千葉市美術館に、山下りんの放送があって一カ月後 の十月二十二日、私は久しぶりに出掛けた。美術館も美術 館で懐かしかったからだが、催される企画が「伝説の浮世 絵開祖」と銘打った『岩佐又兵衛』展だったからである。 名のみ知り、作品といえば、美術全集あたりで見た、人麻 呂と貫之の水墨画の軸二幅が記憶にあるぐらいで、その実 作を目のあたりに見た覚えがとんとない画家の個展である。私には、これを逃したら二度と又兵衛に出会うことはあるまいと思われ、見逃せない企画展だった。山下りんの時もそうだったが、ウイークデーということもあってか、有り難いことに入館者が少なく、また入っているのは自分のような老人ばかりで、会場は閑散としていた。

 確かに、重要文化財に指定されている人麻呂と貫之の双 幅の水墨画は出展されていた。しかし、展示作品を辿り見 て行くと、こういう水墨画が他にはさっぱり出ていない。

 どうやら水墨画は又兵衛の特質とは見做しがたいことになり、私は、最も又兵衛らしからぬ又兵衛によって又兵衛を知っていた不幸に気づく。重文の人麻呂・貫之の水墨画の二点によって又兵衛が紹介され評価されていることは、桃山時代末の、日本における水墨画の一つの頂点を成した等伯や宗達の流れの中で、いわば水墨画重視の視点によって又兵衛をも捉えようとした、ひょっとして美術史観の僻目のせいではないのかと疑ってみたくなる。

 実際、会場には、何種類もの歌仙画が何点も展示されて いるのだが、そこに描かれた歌人たちは、どれも明瞭な細 い輪郭線で際立っていて、水墨画や、それに類する濃淡の 暈しによる人物像など一点も見当たらない。同じことは、 何点もの屏風絵についても、輪郭線や色が、隅々まで濃淡 などなく均質に着彩されていて、常識的な陰影を伝える暈し以外は、省筆の極めて少ない鮮明さを保って描かれてい る。私には、最早、線と色との截然明瞭の手法は、ひたす らそれを旨とする作者の志向として、動かぬものに見えてくる。

 それに画題のことが気になってくる。屏風絵は、或いは 耕作図であり、或いは和漢の故事情景図であり、或いは源 氏物語図であって、要するに主題がどれも人事にあると見 て取れる。既に見た多数の条幅も、伊勢物語であり、平家 物語であり、太平記であって、物語の場面表現ばかりであ る。この物語的な人事への拘泥は、信長、秀吉に仕えた武将荒木村重(信長に背き、信長に見せしめとして妻子三十 四人を処刑された)の遺子として徳川の世を迎え、京を生 れて、越前の松平忠直(菊池寛の「忠直卿行状記」の悲劇 の主人公)の許で過ごすという、不幸流転の憂き目を見て 生きた又兵衛自身の生涯と無縁ではあるまい。

 これは、同じ時代の画家俵屋宗達の自然を扱った装飾的 作品や狩野山楽・狩野探幽といった狩野派の襖絵の圧倒的 な花鳥画・山水画とは異なる世界なのである。町衆の金力 や幕府の権力を背景にした淋派や狩野派の作品における自 然賛歌が美術史の主流だったとするならば、岩佐又兵衛の 人事・物語への拘泥は、彼の人生同様、題材的に美術史の 中心から疎外されざるを得なかった、時代的運命を語って いそうである。

 そんなことを思いながら、何枚も並ぶ歌仙画の歌人たち の容姿顔貌を見て行く。すると、丁度鼻下を境にどの顔も 上下に二分して見え、男女の別なく、その下半分、ロから 下の顎の先までが大きくふっくらと描かれているのが解る。目は細いが眸子は黒い。それは、伝統的な引目鉤鼻のお多福型下膨れとは異なる又兵衛的独自の風貌になっている。二年前に東京都美術館の『狩野探幽展」で観た探幽の人物像では、女性こそお多福型に描かれているものの、男性は豊頬ではあれお多福型には描かれていなかったものだが、今、又兵衛にそうした男女の差はない。そういえば、本展は「伝説の浮世絵開祖」を肩に名乗っているのだが、美術史上その浮世絵の「元祖・開祖」とされる『菱川師宣展』(それを見たのも、やはり千葉のこの美術館だった)で見た師宜の描いた顔を思い出してみると、それは又兵衛の描いた顔立ちに近い。してみると、この又兵衛顔は「浮世絵開祖」と見做す動かぬ証しということになろうか。ただ、私には、師宣はまだしも、この又兵衛顔にはどうしても馴染めず、謎を懸けられたような迷惑を覚えることになる。

 さて、この美術館の一番奥は、広い四角な部屋になって いて、展示経路からそこへ出ると、路地から広場へ出たよ うな塩梅なのだが、その広場に今回は、ガラスケースが何 列も並べられ、ケースの中には絵巻物がびっしり広げ延べ られていた。延べられたその絵巻をガラス越しに見下ろし て、私は思わずおゝと叫びそうになった。何と、その線と 色とのけざやかなこと。まるで完成したての新鮮な色と線 で、眼の濁りが一挙に払拭されたような錯覚を覚えたので ある。とりわけ緑と赤の色の鮮やかさには息を飲み、改め てその保存の良さに驚く。一人の画家のこれほどの絵巻物 を、その数(九点展示されていた)においてだけでも、私 はこれまで見たことはない。又兵衛は、絵巻の画家だった のである。

 無論それが絵巻物であるからには、全てが物語的展開を 示しているということだが、絵巻の題材は、全て、これを 古浄瑠璃に仰いでおり、この拘りも彼の人生に深く関わる ことと思われてくる。重文指定になっている「山中常盤物語絵巻」・「浄瑠璃物語絵巻」、六箇所から出展されている二種類の「堀江物語絵巻」と「小栗判官絵巻」の絵巻群である。展示部分だけからしても、殆どが着色された細密な絵であって、文字の部分は少ない。絵巻だから幅は三四、五センチ、そこに描かれる物語世界を想定すれば、クローズアップの発想や手法などのない時代、人物像の大きさが十センチ程度以下になることは分かって頂けようが、戦場などでは、その小さな人物群像が、鎧の威しの糸目まで明瞭に描かれる細かさで表現されているのを見ると、その現を忘れた又兵衛の作業に惚れざるを得なくなる。宮内庁所有の「小栗判官絵巻」は、全十五巻の内、五巻が展示されていたが、案内によれば、全巻の総延長は三二四メートルに達するというのだから、如何に弟子達との共同作業であったにしろ、舌を巻き絶句せざるを得なくなる。又兵衛の面目目の当たりに見たりと、私は大音声を挙げたくなった。とりわけ、「浄瑠璃姫物語絵巻」に描かれた、浄瑠璃姫と牛若の刻々に変わる幾つかの逢瀬の場面の、二人の人物と周囲の建具・屏風やその屏風の図柄・庭木等に至るまでの、省筆と暈しとを一切持たぬ、徹底した細密画の華麗艶麗な筆致には、見飽きぬ魅力を覚え立ち尽くしてしまった。赤と緑の彩色が、男女の情愛を語るに、これほどの力を発揮するとは。この発見に、私は嬉しくなった。

 二十日程経って、山下裕二という人が、新聞で「岩佐又 兵衛」展を紹介し、又兵衛について「絵そのもののクオリティーと、一般的な認識に、これほど差があるケースも珍しい。だから私は、応援したくなる」と言っているのに出 会った。得たりや応、臍の曲がった私も素直に喜ぶことが できた。

(二〇〇四、一一、二〇)

 

 

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