川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

斜め後ろの眺め

 春の高山祭に出掛けて間がないのに、またぞろという気はしたが、今時、山下新太郎展など、滅多にお目にかかれるものではないと覚悟し、彼の画業の全貌に触れる喜びを当てにして、四月二三日に上京した。

 山下新太郎展は、八重洲のブリジストン美術館で催されていた。しかし、山下新太郎の画業の実際を殆ど知らぬ僕にと って、そこに展示された作品群は、渡仏中に描いた三点を除いて、作品の内容からしても、その輝きからしても、彼の画業のしさを伝える結果を招いたに過ぎぬように見えた。八十過ぎまで生きて、後半生の作品はこの程度の出来だったのかと、その小さくて、力の乏しい作品群に落胆した。嘗て漱石をして、耳元に口をつけてその名を呼んでみたいとまで言わしめた、『マンドリーヌ』という女性像には、是非会いたかっただけに、その望みの適わなかった恨みも、僕のこの展覧会への落胆を決定づけた。

 かてて加えて、この気分を晴らそうと入った、八重洲の地下街のレストランでの昼食が、折り紙を付けてよい不味さで、僕は、不快の沼にずぶずぶ嵌まりこんでしまったのだ。

 気分を変える必要が僕にはあった。僕は八重洲側から丸の内側へ抜けた。難波田史男の展覧会を開いている東京ステーション・ギャラリーに向かったのである。その名前に微かな記憶があるほか、僕は難波田史男について何も知らず、彼がどんな絵を描くのかという淡い興味以外、何の当てもなかった。が、それが幸いした。彼の百二十点に及ぶ画用紙大の水彩画の殆どが、優しい色彩のコンビネーションと頼りなげな線描との初々しいハーモニーを奏でていた。そのナイーヴな絵は、三十歳を過ぎて、色と色とが滲み合うようになり、混沌の風合いを強めていったところで終焉している。

 ともあれ、彼の絵のどこにも、「決意」とか「確信」とか、「断固」とか「闘志」と言った言葉を伺うことはできない。絵は「震え」に終始している。掲示されている年譜を読めば、難波田史男は、大学紛争の最中早稲田大学に学び、三十二歳の冬、旅行中、瀬戸内海のフェリーから海に落ち溺死していた。

 その死は、もう三十余年も昔のことで、その昔の遠さ、遠さが齎す浮遊するような無重力の頼りなさを、彼の絵は、三十余年の彼方から、それが人間の実態だと言わんばかりに語っている、そういう絵だった。僕は、すっかり静かな気持ちに返って会場を出た。日差しが思わず眩しい。

 翌日は、天気が崩れかかっていたが、葉山へ出掛けること にした。葉山に新しく出来た神奈川県立美術館に行こうと思ったのである。逗子までは、蘆花の「不如帰」のこともあって、一度訪ねたことがあるが、その先は初めてで、どんな美術館が出来たのか興味もあったし、開館の記念企画展がレームブルック展だということも、僕の興味を著しくそそっていたからである。レームブルックについては、もう十年も前、愛知県美術館で催された「表現主義彫刻」展に出ていた、その五・六点の作品によって見知っていた。その中の、優に二メールはあろうかという青年の立像一点は、愛知県美術館の所有に帰するものでもあったのである。

 表現主義 (Expressionisms)と言えば、その運動が、二十世紀前半の、第一次世界大戦を経て、第二次世界大戦の迫り 来るまでの、凡そ三十年間、フランスではなくドイツに興ったものであり、台頭したナチの暴力によって、頽廃芸術の 烙印を押された揚げ句息を絶たれたものであることからしても、それは、近代科学文明への希望と信頼と人間への愛の上に成立した印象主義 (Impressionisms)とは、作風において、文字通り対立せざるをえないものとなった。だから、僕の知るキルヒナーやノルデやコルヴィッツたちが、その精神に癒し難い深手を負って生きたのと同様、レームプルックも、その悲劇性を体現した作家なのだと僕には思い込まれていた。

 さて、逗子で電車を降り、駅前のバス乗り場に足を運ぶと、葉山に新しく出来た神奈川県立美術館へのバス乗り場と降車停留所を記した立て看板が目に入った。看板の指示どおり、海岸回り葉山行きのバスに乗ると、バスは、重く雲の垂れた水平線を望みながら、海沿いを走って三ヶ丘の美術館前に着く。逗子のバスターミナルのあの人出も、この美術館まで来れば、僕一人になってしまっていた。

 後ろに海を控えて白亜の建物が平たく建ち、道と建物を隔 てる前庭にはまだ植樹して間がない樹木が、緑の葉を見せな がらも些か寒そうに立っている。

 フロントの空間も全体に白く、その分広く感じるのだが、人気のないこんな曇日には寒々することにもなる。受付のカウンターには、制服姿の若い女性が二人立っていた。僕は敬老手帳を見せて、半額で中へ入る。

 照明を控え目にした展示室の壁面には、作品の下書きやモ デルのスケッチ、デッサンを掛け、床には、そのプロンズの 彫刻作品を、周囲にたっぷりゆとりを持たせて配置してあった。館内が閑散としている、その分、自分の足音に脅える程のひいやりした静けさの中で、このゆとりを体感して見ることになった。そして僕は気付く。

 置かれたブロンズ像の回りにゆとりがあるということは、像を限られた方向からだけでなく、そのぐるりの全ての位置から見ることができるということだが、左手を左の足首にやり、右手を腰に当てて上半身を屈した「水浴する女」を一回りした時、左手をおろしている背後から見た像の美しさに、僕は息を飲んだ。背から肩、肩から腕へ流れる曲線と、左の 足から腰、腰から胸の乳房へ寄せる曲線とが生み出している、女の優しさそのものがそこにあった。前から見れば、豊かに垂れる双の乳房と、引かれた腰の隣の女陰とによって、嫌でもそこに醸し出される女の性というものが、この斜め後ろからの一瞥では見事に浄化され、それこそ、この女の名を、"ああ"という感嘆詞と共に呼びかけてみたくなる、そういう、曲線の優しい美しさだった。ここには、曲線が、レームプルックが女に認めた精神的価値の結晶として存在していた。

 前面より斜め背後へ。彫像に対する僕の動きが変わった。

 そして、「母と子」「立っている女」「腿に肘をつく少女」「ものを思う女」、それに彼の代表作「ひざまずく女」に至るまで、彼の造形した女性像の全ての斜めうしろに、優しさそのものの表現としての柔らかな線が、回りの空間に向かって、すっきり且つきっぱりと自らを位置付けているのを、僕は知った。それらの曲線は優しく毅然としていた。

 とりわけ、横座りした膝の上に抱かれて上を見ている赤児 と、上から被さるようにして、抱いた赤児を見下ろす若い母 親とを彫った「母と子」の、その背後から見た曲線は、女で あって尚母である者の優しさーーセックスを顕さないセックスーーを、見事に現出させていた。紛れも無くそれは、後ろへ回って始めて実感できる現代の聖母子像だった。しかも顔を伏せる聖母の肩と首筋は、明らかに泣いて見えた。彼には「ピエタ」と題する油彩画も一点掛けられていたが、優しい曲線の美とは、人間ならば誰もが持っている、生きている哀しみというものだったのだ。

 しかも、この哀しみの曲線は、ただに女性像だけに見られたのではなかった。「くずおれる男」や「坐る青年」のような男性像の、斜め後ろから見た肩の線にも、それを見取ることができ、それだけ、レームブルックの背後の曲線が、彼にとっての作品の核心そのものであることを物語っていた。

 それにしても、どうしてレームブルックはこの哀しさに拘り続けたのか。

 展示の最終章は、「絶望と崩壊」と名付けられているが、そのコーナーに最早彫像はなく、展示されているのは「絶望する男」「壊れゆく世界」「傷ついた守護神」等と題したドライポイントや、「マクベス(後ろ向きに倒れる男)」と題した木炭画だけである。しかし、既に、それらの題名そのものが、レームブルックの精神のありようを語りかけている。粗描きの木炭画は、一九一九年の作で、それ以後の年次を語る作品展示はない。そして、最後の小ぶりな展示室には、関連資料が展示され、レームブルックの生涯が辿れるようになっていたが、彼は、一九一九年三月、妻と二人の子供を残し、アトリエで自ら三十八歳の生涯を閉じているのである。

 やはり、そうだったのかと、僕は何故か得心が行く。生の 根源的な「哀しみ」を、第一次世界大戦の経験と、自らの表 現を通じて見続けなければならなくなっていった、レームブルックという男の優れた感性の悲劇に、僕は今打たれ、共鳴し、共鳴することで、僕自身の生を後ろめたく振り返らざるをえなくなっている。

 展示室を出て、僕はカフェへ行った。ガラス張りの細長い カフェのテーブルからは、枝振りの心憎い松と彼方の水平線 の織り成す海の景色を楽しむことができるようになっている。僕は海に向かって一人椅子に掛けた。そして、重い雲の広がる海の彼方をぼんやり見遣りながら、注文したコーヒーをゆっくり啜った。雨が落ち始めていた。

(二〇〇四、五、一〇)

 

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