川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

有為転変するテルヲ

 その日は朝から、言葉の音感どおりの曇天だった。

 私は、友人Sと、上野の東京文化会館の前で落ち合い、午前中、西洋美術館に『レンブラントとレンプラント派」展を観た。それから、二人で池袋へ出て軽い昼食を採り、西武池袋線で中村橋に降りて、初めて練馬区立美術館を訪れた。私は、ここで公開中の奏テルヲの企画展を観たかったのである。Sもこの美術館は初めてのようだった。公園風の木立の中、正面、石の階段が上へ伸びる右手下に図書館があり、美術館は階段を上った左手に建っていた。人気もなく、区の文化施設としての佇まいがこじんまりと出来上がっている。

 受付で、六十五歳以上の割り引きがあるのを知って、私は、胸のポケットから老人手帳を出した。無論Sも出す。こういう所の仕事は区民のボランティアの女性などが多いようだが、受付の婦人が、私の手帳を見ながら、七十五歳からは無料になりますのでと、案内してくれた。そんな時が来ますかねえ、私は手帳を受け取りながら、そう言ってしまって、来るといいですねと愛想よく言えなかった、自分の暗さに少し気が滅入った。

 その気分を、テルヲの絵が救った。救ってくれたのは、入 って早々に展示されていた、工場とそこに働く人たちを描いた、水彩画といった感じの数点の作品だった。人物、とりわけ、明治末の前掛けをつけた女子工員たちの、滲んだ墨絵風の姿が愛らしく、胸にこたえた。この展覧会が、サブタイト ルに「デカダンから光明へ」と掲げ、『異端画家秦テルヲの軌跡』と銘打ったものであることからしても、この最初の数点の工場風景を描いた一九一一年(年譜に従えば、テルヲ二五歳である)の作品は、こちらの予想を裏切る新鮮さだったのである。それに、これまで私に印象づけられている秦テルヲの絵は、『京都の日本画 1910~1930」展(京都国立近代美術館、一九八六年一〇月)や『近代の日本画—西洋との出会いと対話』展(愛知県美術館、一九九三年一月)によるものだったが、まさに「デカダン」の「異端画家」に相応しく、虐げられた女達という存在そのものを、日本画とは見えぬ洋画的筆捌きで、まるで淀み濁った青沼のように暗く描いて見せたものばかりだったのだ。

 その先入見に比べれば、この最初期の人物たちは、どれも、作者の目から遠く小さく捉えられ、それだけ、その女子供は、見る者の気持ちを救う可愛さを持っていた。それが、一九一三年の「花骨牌をする女郎たち」あたりから、女達は、画面一杯に、作者の目の前の存在として描かれるようになり、そのどろりと青黒い画面は、色街に身を沈めている女達の悲惨を、彼女たちとの性の営みを通じて増幅すべく加担し、しかもそれに惑溺している、そのようなテルヲ自身を自ら脅迫する観念によって描きあげている感じである。ここにあるのは、まさしく頽廃と呼ぶに相応しい「デカダン」の風である。

 ところが、一九二一(大正一0)年の、誕生後一年位の長男を描いた「真砂光の顔」という作品以後、暗い頽廃の画風はすっかり影を潜めてしまう。既にテルヲは、三十代半ばになっている。描かれる女は、誇るでも恥じらうでもなく豊かな胸をたっぷり露にして、樹木と草花の中に、まるで恵みの象徴のように一人で立ち、そうでなければ、必ずや目を閉じて眠っている子供を膝の上に抱いて座る、乳房豊かな母親像として描かれることになる。これらの女性像は農村の女よろしく、お義理にも美人とは言えない健康な体躯である。そして、この何点もの母子像は、どれも正面を向いて描かれ、これがテルヲの聖母子像であろうことは最早疑う余地がない。それに対して、女の立像はこれを聖化させれば菩薩像に至るであろうことを窺わせる。

 果たして、テルヲが四十を迎える二六(昭和一)年に入る と、「釈迦」や「如来」や「観音」やの小さな仏像の絵ばかりが何点も並ぶことになる。絵が小さい(大きくて三〇×四〇センチ位)ので、メガネを掛けて出来るだけ顔を近寄せなければならなかったが、仏像たちの顔は、どれも瞼が厚く殆ど瞳の見えない瞑想の表情である。決して笑ってはいないのだが、見て微笑ましくなる表情をしている。一生懸命生真面目に作品に取り組み、脇目もふらずそれを仕上げる小学生が連想されるような、ユーモラスなところさえある。どうやら、テルヲが初期の絵に描いた人物たちの可愛さは、デカダンの闇の内を潜って、仏の姿に変貌再生しなおしたか。

 幼な児の長男の絵からこの一連の仏像画まで、色彩の強弱 濃淡は、「デカダン」の青黒い暗澹濃厚の色面から、次第に淡い黄土調の色面へと変化して、別人の絵のようになってしまった。色使いが柔らかく穏やかに変貌するのを目の辺りにすると、その色使いに応じて推移したテルヲの心を思い遣らざるを得なくなる。  

 それが、翌二七年になると、また、描く対飯がガラリと変わって、専ら山と川と田畑の田舎の風景になる。ここでも、 何点もの小品が出されていたが、何と言っても、十数点はあ ったか、床の間を飾るに打ってつけの、軸装された縦長の風景画が目を引いた。そして、この軸装という日本画の伝統的な枠によって取り籠められた風景画は、三三(昭和八)年までテルヲの主題で有り続けているのだ。主題であり続けた田舎の風景の中で、最大の魅力は画面の中心に立つ樹木である。テルヲは林や森を描いてはいない。風景の中に目立つ一本の木を描いている。しかもそれは、決して巨木と呼び得る木ではない。それでいて、景色の中で、何というけざやかな立ちっぷりだろう。けざやかさは、それまで見られなかった線描の明確さによっており、その線描が、空気の澄明な風景の佇まいを決定的にしている。漸く、自然の中の木と共に呼吸している、どんよりした頭から解放されたテルヲを、そこに見出すことができる。

 そして、五十歳になる三六(昭和一一)年頃から、再び仏画が描かれだす。だが、今度は、穏やかな色面の濃淡によっ て描かれたそれまでの仏画と異なり、単純な色彩面に、対象 を明確な線によって立体的に描いた仏画になる。と同時に、 この線描に明瞭な彩りが加味されて、これまで描かれなかっ た題材の大威徳明王や不動明王が新たに登場する。それが、 これまで扱ったことのない憤怒の表現として選ばれた題材で あろうことは、忽ち了解出来る。了解出来るのは、これまで のテルヲの絵のあまりにあからさまな変貌ぶりに、彼の馬鹿の付く正直の反映を感得してしまっているからである。そし て、教えられるのだ。苦界を逃れ、救いを見出そうと仏に近 づくことは、仏界に己を映す鏡を発見することだということ を。つまりロゴスを生きる人間は、一寸やそっとで解脱なぞ 出来るものではないということを。

 赤い憤怒の不動明王を描いたことで、テルヲはむしろ、よ り人間らしくなったように見え、そう見えてこちらが救われ ることにもなる。実際、テルヲが三七年に描いた『自叙画譜』の詞書を辿れば、中に「法を山に聴くも未だ我執に捉はる」の文字を見出すことが出来るのだ。

 その『自叙画譜』以後、展示されている彼の作品は、『明治の思出』(三八年)、『京洛帖』『京洛追想画譜』(三九年)、『戦中絵日記』(四五年)といった画帖画譜ばかりになる。四十(昭和一五)年までの四点は、日中戦争の最中、次第に軍国主義一色に塗り固められていく世相の中で描かれた懐古の世界であり、最後の絵日記は、原因不明の病に冒され治癒の望みを断たれたまま五年間の闘病生活の末、大東亜戦争(第二次世界大戦)と自らの生の終末を併せ感じつつ描かれた、昭和二十年の、テルヲ終焉の記録である。

 その絵日記の一枚は、三面六臂の阿修羅像ーーその阿修羅 の顔が自画像であることは、別の「闘病五年記念自画像」の 顔に照らして明らかであるーーを墨彩で描き、「我日日死を直前に生を盗む事又之天寿乎 昭和二十年夏八月七日」「茲に題して太陽落ちんとす是亦遺作也目前に迫るコノ病苦今日ハ気息エンエンタリ 非哉」と記し、また別の一枚は、 幼子を膝の上に抱いた慈母観音像ーー観音の顔は切れ長の目 をした丸顔であるーーを描き、これには「両三日急転戦局悪化 昨夜来連続警報発令 敵機轟々我頭上自由行 病床之中 唯々悪煩 恐怖之苦悩 生之苦悩 死之苦悩 病之苦悩 悉皆戦不利因果 鳴呼不利戦誰之罪 誰之責 昭和二十年八月初旬」と記したうえで、般若心経を書き添えている。

 懐古的画譜が既にそうなのだが、こうした絵日記の絵を見 かつ読んでいくと、テルヲがこれまでこちらに伝えようとし てきたものは、自分の絵画というものが、テルヲという一個 の生の燃焼過程の言語的表白でしかなかったということだっ たと分かる。変り行く自分を語り通した些細な存在、その愚直ないじらしさ、どうやら、それがテルヲの魅力の全てらし い。そう思って、ロビーに戻り、遅れて出て来たのにどうだ ったと感ねると、「俺はこんな絵描きが居ることも知らなかっ たが、見てよかったよ。」と言った上で、「懐かしい親しさだったな。」と述懐した。

 それにしても、年譜の作品展示というのも珍しい体験であ る。

(二〇〇三、一 二、一)

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