承前
二
四月二九日、私は、久しぶりに京都へ向かった。京へ向かうのは、京都国立博物館で催されている、「海北友松」展を観るためである。国立博物館の「開館一二〇周年記念」の「特別展覧会」と銘打っての展覧会であり、そのように銘打って催されるほど、友松が、京都にとって重要な画家であったことを伝えているはずなのに、私は、その名前にも作品にもまるで無知だったのである。海北友松がどんな画家なのか、私は無視できなくなり、彼を知ることへの期待が私を動かす。
十一時過ぎに家を出たので、京都に着けば一時を過ぎている。軽く食事をとってから、展覧会を観ようと、京都の七条通りを、東へ歩く。鴨川を渡って直ぐのところに、二階に客室のあるカフェがあって、一度入ってみたく思っていたので、そこへ入った。二階に上がり、通りを見下ろすテーブルに掛けて、ミックス・サンドにコーヒーを頼み、気分を落ち着かせる。そして、京都国立博物館へ。
入館して、紙面一杯に雲龍が印刷されたチラシを一枚手に取れば、大きなローマ字書きの「KATHOKU YUSHO」の文字に並べて、「この絵師、ただものではない!」とあり、横書きの「海北友松」の大漢字の上には、「武家に生まれ、桃山を生きた。」の文字が読める。
どうやら、友松も、この前観た雪村同様、時代も同じ、武家の出であったようだ。差があるとすれば、どうやら、雪村が、常陸(現在の茨城県)の、関東の一地方の、早くから寺に入って修行した画僧だったのに対して、友松は、京都の名刹、東福寺で喝食(かつじき)(注1)をしていたお陰で、武家の身の危険から救われ、狩野派によって絵の学習も出来、京にいたお陰で、名だたる人々と拘わる運に恵まれ、画家として大成したということらしい。
展覧会は、「絵師・友松のはじまり一狩野派に学ぶー」に始まったが、部屋の初めにあったのは、六曲一隻(約一五OX三五〇センチ)の「菊慈童図屏風」、六曲一双(一隻約一六〇×三五〇センチ)の「西王母・東王父図屏風」、八曲一双の「山水画屏風」の三点と、アメリカから里帰りした「柏に猿図(各約一八OX一四〇センチ)の二幅だった。
狩野派の特徴がどういうものなのか、それを説明することは、私にはできないが、正統派を意識しての、格調、体裁取りを、友松の絵は持っていた。紙本着彩の彩色が、その細かな線描と共に、極めて鮮やかに保存されているのに驚く。雪村の絵で見た、水墨的な筆捌きはまるでない。
中でも、ほぼ屏風中央の、三曲目に描かれた菊慈童が、滝を背にした山中の気を締める松の根方に、紅色の衣をだらりと纏い、右足を膝に乗せての半跏咲坐(はんかふざ)で描かれた姿は、今時のイケメンとは違ういい男で、しかも童子の幼さはなく、気持ちが良い。これを描いた時の友松は、二十代だと思いたくなる。
それに比べ、西王母・東王父の方は、右隻の、松と梅を背に立つ西王母とその侍女、左隻の岩の上に立つ東王父の姿に、菊慈童のような色気は見られなかった。そして、それ以上の感興を、この作品群から受けることは、もうなかった。
第二章は、「交流の奇跡―前半生の謎に迫る―」と定められていたが、そこにある展示物は、重文指定を受けている、海北友松の息、友雪の描いた「海北友松夫妻像」や、狩野探幽の描いた「春日局像」一幅、国宝になっている狩野永徳の、京都・衆光院の「琴棋書画図襖」の四面、同じ寺院の国宝、狩野永徳の「花鳥図襖」の六面と、それ以外は、書状や書類のあれこれで、友松の描いた物は一点もない。これでは、探幽や永徳との交流を思い遣ることはできても、それ以上は、展示された筆の跡を辿ることなどとても適わず、正直、御免蒙りたくなる。私は、友松の謎に迫ることなどとんとなく、先に進む。
しかし、その次は、京都建仁寺の塔頭のあちらこちらに書き残された友松の襖絵が並んだ。まず、大中院の「山水図襖」八面があったが、襖の汚れのために、原画が汚れと重なり、何がどう描かれているのか定かでなく、山水の風情なぞ想像する以外にない始末である。
次には、雲洞院の、作品が数点続き、まず「花鳥図襖」の四面の画面は灼けがひどく、普通ならば枝を広げた大樹の松が描かれているはずだが、襖の上部に見えるのは松の葉の連なった幾つかと、太い幹の跡が薄く見えるだけで、はっきり残っているのは芍薬の花の何本かのみ、水鳥が浮かぶ水面も消え去り、その佇まいが分からなくなっていた。それに襖の下部が擦れて白くなっている箇所が何箇所かできてもいた。
人物を描いた「唐人物図襖」の二面では、着衣の太い線が「墨筆の刷けの形を残す以外は、すっかり色褪せ、四人の人物の顔などは目の線が残るだけになっている。
そうした中で、六曲一双の、重文になっている「琴棋書画図屏風」は、曲の畳み目の汚れが黒くなっている点を除けば、墨跡、彩色共によく残り、襖との差を示していた。但し、作品は、右曲の、箏を脇に置き土上に座した人物に風情乏しく、左曲の、絵に描く風景を見ているのか、二人の人物の立ち姿には、稍風情が出ているが、全体としては、文芸を選ぶ場が、余りにも寂びていて、私にこれといった感興が起きず、がっかりである。
重文では、禅居庵の「松竹梅図襖」の四面でセットになっている、二連の墨筆画があったが、汚れた襖の中に墨色が褪せ、松の枝に止まる二羽の叭叭鳥(注2)が、止まる枝が消え失せて、宙に並んでいる有様である。梅の花も、殆ど花の姿を失って、枝の直線的交錯が、梅の木であることを伝えるのみだ。原画の実態を失った古び具合が、重文の値打ちなのかと疑いたくなる。
その後、「友松の晴れ舞台―建仁寺大方丈障壁画―」の項へ部屋が移ると、重文指定の五点が並んでいた。中でも、八幅から成る「雲龍図」は、左右の龍の向き合い対峙するその顔の表情、靡かれた長い髭が踊り、雲海の渦巻き流れる姿、それらが織り成すダイナミックな律動性は、意外にも優しい音楽の音色をこちらに伝え、やっと、友松の絵を見た思いになれた。
後は、一幅二メートル四方の八幅からなる「竹林七賢図」と、ニメートル×一、五メートルの四幅、ニメートル×一メートルの二幅の、六幅からなる「琴棋書画図」との、人物を扱った二点が私の関心を引いた。とりわけ墨画の七賢図の、初めの一人次の二人が一幅ずつに描かれた老人像は、細筆によるそれぞれの表情が、仕種の中で生きており、衣の粗い筆捌けの流れとマッチして、気持ちがよい。
残りの「花鳥図」と「山水図」は、私には重文に指定されるほどの値打ちが見えない。
ところで、これらの五点は、全部京都建仁寺の大方丈の障壁襖絵を外して持って来ている訳で、だとしたら、この襖絵の外された後が、どうなっているのかと、その空虚の広がりを、想像してしまう。つまり、そんな想像をさせるほど、友松作品は、私を引き付け飲み込んでしまう程の力を発揮しはしなかったというわけだ。
ところが、展示は「友松人気の高まり―――変わりゆく画風」に変わり、作品の殆どが屏風になり、作品が個人の所有になり、オープンに機能して居た襖絵とは違って、親近さを持って身近に扱われるようになると、保存も良くなり、色も線も褪せることなく残っていて、前項の障壁画の作品に比べて清潔さも増した。
まず目に入ったのは、それぞれの幅の画賛の描き手が異なる(ということは、賛の絶句の書体も行草の差もその行数も一作毎に異なっているということだ)「瀟湘八景図」のうちの五幅、「漁村夕照図」「瀟湘夜雨図」「遠浦帰帆図」「平沙落雁図」「洞庭秋月図」があったが、対象を抽象化し簡略化した作画術が、一点毎に賛の文字と微妙な味わいを生んでいて面白い。
六曲一双の「野馬図屏風」と六曲一隻の「牧牛図屏風」の二点は、牛、馬の飄逸な体躯表情が作品にユーモアを齋し、友松に、遊び心があることを語っていて嬉しくなる。
それは、人物を扱った作品にも、顕著に現れることになる。いずれも六曲一隻の作品だったが、「飲中八仙図屏風」「禅宗祖師図押絵貼屏風」「群仙図屏風」に描かれた童子を除く髭面の仙人の多くの表情に脱俗の風があり、作者友松の意図がそれなりに示されていた。
それらは何れも墨水画だったが、そういう中で、一点だけは彩色画で、他とは違った彩色の美しさを、画面にバランスよく残していた。その重文指定の「婦女琴棋書画図屏風」では、婦女を、その美しさを際立つように描くのでなく、さりげない自然な仕種を通して描いているのが、洋画の、それぞれの顔立ちの美しさを表現しようとする姿勢と比べて、より自然らしい美しさだった。
その次は、「八丈宮智仁親王との出会い大和絵金碧屏風を描くー」の項になったが、智仁親王と言えば、桂離宮の創健者の筈だが、その宮から作画を依頼されたということか。
友松七〇歳の時だったようだ。頼み手が頼み手だけに、金碧屏風が、四点も続くことになる。それも、六曲一双の「浜松図屏風」と「網干図屏風」の二点は、宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されていることが記されていたが、友松の作品は、そういう特別な場所に身を置くような扱いを受けてきたということだ。
しかし、私には、浜松図の、浜の曲線の作る世界と、それを取り巻く松の群れの世界とが織り成すデザイン性、網干図の、鋭角三角形になって見える、網を干している柱の頭部が、不規則に並んで立っている姿と、それを取り巻く葦の緑とが、海岸を遠くにして広がった、普通なら景色を成さぬ物を景色化したデザイン性に、友松の才知が溢れている。しかし、大きく金箔で覆われた世界の贅には、自分のような貧乏育ちは馴染めない。
同じ六曲一双の「扇面貼付屏風」の、金箔の上に描かれた波の世界に二〇点程の扇面を貼り付け散らした屏風を見ると、波の動きの筆跡が、黒っぽく汚れた色に思われるだけに、友松、お前そこまで遊ぶかと、腹立たしくさえなった。
そして、こうした金ぴか絵は、「横溢する―個性妙心寺の金箔屏風―」と括った三点の重要文化財に移った。この三点は、金ぴかに慣れた私に、重文指定を十分納得させる、三点とも六曲一双の、どれも、一隻の身の丈一八〇センチ、身幅三五Oセンチ大の作品である。
まず「花卉図屏風」。その右隻は、右端に岩を配し、緑青の色濃い岩の陰から生える牡丹の白と赤との花が、満開に咲き誇っている様が、牡丹の木の緑と共に、実に細かく描かれており、左隻は、右隻から一歩退いた位置に、やはり緑青の緑の岩を前にして、老梅が立ち、その下には椿が枝を張って白い花を広く咲かせ、更にその下に竹が這い、岩の前には蒲公英の二花が愛らしく、そんな白い花の世界を守るかのごとく、背後に幾つかの離の立つのが描かれている。それは、今日私が見た山水風景画作品の中で、最も快適な作品だった。
それから、「寒山拾得・三酸図屏風」と「琴棋書画図屏風」の人物を扱った二作。
その前者の、右隻中央に描かれた寒山拾得の二人は、寒山が経典を両腕一杯に広げ持って立ち、拾得がその背後に張り付くようにして箒を手にして立っている、その二人の笑顔が双子のように描かれているけ方なのに対して、左隻の、一人と二人との老人三人が向き合って立ち、どうやらお酢を口にして、酸味に顔を顰めているその表情が、若い二人の表情と呼応して、金ぴか作品に、上品なユーモアを作っていた。
それに対し、後者は、人物それぞれの衣の彩色や柄が細かく、岩と松との織り成す景を生かしてはいるが、人物の置かれたありように面白味を欠いており、その分、前の五人のような生きた味わいを画面に発しておらず、金ぴか絵の総合印像が、ひどく痩せて見える。
その気分の中へ、「画龍の名手・友松」と題して、友松の画龍四点が登場した。既に建仁寺のために描かれた、四幅ずつで一対の、重文指定「雲龍図」を見ていたが、今度目の前に登場した、重文指定の六曲一双の「雲龍図屏風」は、前の龍に比べて二頭とも年老いた顔にしたかったのだろうか、腹が大きく長くなり、ためにどちらの龍も、瞳が睫に覆われんばかりに弱くなっていて、眼力を失っていた。このため、左翼の龍の二本の角は、その白っぽさが作り物のような角に見えて、重文指定の重さを欠いていた。
同じ「雲龍図屏風」でも、六曲一隻に収められた雲龍では、長い角と長い睫を生やした竜頭の瞳が、しっかりした力を持って描かれており、どうやら、友松の年齢のせいばかりとは言えないようだった。ともあれ、龍によって昇天したあとは、友松の「墨枝を楽しむ―最晩年期の押絵制作―」。友松八二歳、最晩年の気儘な筆致の水墨画を、その力を無理に出すのでなく、楽々と筆の遊びに身を任せている友松を見ることができた。
そこに、「人物・花鳥図押絵貼屏風」と「禅宗祖師・散聖図押絵貼屏風」とに纏められた、それぞれ六曲一双の、六枚ずつ並べて貼られた屏風四点の、計二四作品を観ることが出来たのである。どれも、一点が縦一メートル幅五〇センチ大の気張りのない作品で、それが一枚ずつ貼られた、屏風の一曲ごとに気楽に辿って観ていくことになったのである。
すると、中に、雪村の作品として傑出した面白さを出していた「呂洞賓」の絵があった。それは、棒の上に乗った呂洞賓が、白髭を風に靡かせ宙に跳ね上がっている姿が、雪村の作品と同じ格好で描かれていた。但し、雪村ほどの滑稽があからさまではなく、その分、友松らしく、滑稽がお上品に出来ていた。
そのお上品こそが、友松の作品として、押絵の白羊や鹿、白鷺や芦雁の優しい顔に、祖師や仙人の老顔に集約していた。
私は、この屏風に残された、どこかを飾るために描かれたものではない、手元に残るべく描き止められた、友松の業(ごう)の結末を、素直に受け止めることが出来た。私は友松の大往生を味わいながら、鑑賞の幕を閉じるはずだった。
にも拘わらず、その後、「豊かな詩情」と唱えて、「友松画の到達点」と名乗った一点の作品、六曲一双の「月下渓流図屏風」が展示されていたのである。それは、アメリカのネルソン・アトキンズ美術館からの、渡米後初の里帰り作品のようだったが、その山水図は、右曲と左曲とのそれぞれに、薄い灰色で岩間を行く渓流が描かれ、月は左曲の上部に灰白の姿を薄く見せ、後は右手の奥に松、手前隅に梅の根方、左手の奥には梅の老樹とその花が、手前へ二か所竹の群れが描かれ、右手の岩の上には土筆の姿が見え、左手の岩の上には浦公英の草の緑が、作品に色気を点じていて、あの、金ぴか絵の、あの山水が、最晩年のここに至って、再現したような気がした。
そして、気持ちの良い出来として見ることができたその分、最晩年の友松の息遣いを二四点の作品から、しみじみ聞いた後だっただけに、この余計な演出に、シラケてしまい、つまらない終わりになった。
私は、この気落ちした気分を味わいながら、美術館から七条通りに出る。
空気が、美味しくなった。
さて、東の雪村、西の友松、どちらが勝ちだというのか?
注1
「喝食」の「喝」は、唱える意で、禅宗で、食事を僧侶に知らせる役目をした、有髪の少年を言う。寺に身を置きながら出家はしていない。
注2
ハハチョウ(ハハッチョウ)。八哥鳥のこと。二五センチ大のムクドリ科の鳥。全身黒色をし、嘴の上に羽冠があり、翼を広げると、中央に大白斑が現れ、左右で八字形を成すので、その名がある。鳴き声がよく、飼い鳥にされ、花鳥画の素材となる。
(二〇一七、五、一五)