一
四月十五日、午前、東京芸術大学大学美術館に、展覧会『雪村 奇想の誕生』を観る。
「雪村」、この画家について、私は何も知らない。雪村という名さえこれまで聞いた事がなかったような気がする。
上野駅で貰った案内のチラシの頭に、「『ゆきむら』ではなく『せっそん』です。」と書いてあった。雪村を案内するのに「波風立てて、上野にドドーン」という言葉を、チラシに置き、その作品、「欠伸布袋」や「蝦蟇鉄拐図」の部分の紹介を見ると、これから見る日本画が、相当変わった描き振りで、笑いと共に楽しむことが出来そうな気分になってくる。
美術館へ入館すると、エレベーターで三階に上がる。この美術館は、三階、二階の順で見て回ることになっているのだ。
展示室の最初の部屋に入ると、初めに「常陸時代、画僧として生きる」という案内があって、その言葉を裏付ける、雪村の出自の紹介が行われていたが、その定かならぬ事実に、私が雪村について知ったことは、曖昧なものでしかなかった。
それによれば、雪村は、一四九〇年頃、常陸の国の、佐竹一族の一子として生まれたようで、十代には、佐竹家の菩提寺正宗寺で出家し、画僧の道へと進んだらしい。
十五世紀の終わりと言えば、室町時代の末になるが、その室町後期の画僧、雪舟等楊と言えば、さすがの小生も、その童話による「雪舟さん」への親しみもあって、その展覧会(注1)も観て知るところだが、その雪舟に、生まれも育ちも定かならぬ雪村が、弟子の縁があったとは、どこにもなく。雪村は家柄も、流派も持たぬ立場だったようだ。
そんな雪村の、最初に目に飛び込んだのは、同一の絵図「滝見観音図」の二幅の中の一幅で、彩色が黒ずんだ古い方に対して、新しい方は、それを模した雪村の作だと想像することができた。
絵は、滝を左手にして、岩に掛けた滝見観音の足元手前に、平たい岩上に座し、合掌して観音の姿を仰ぎ拝する善財童子が描かれているのだが、円光を背にした大きな観音に対して、拝む童子の姿は小さい。
その雪村の写しは、観音像に対しては、その宝冠や着衣について、その細工、柄、折り目などまで模写が徹底しており、それに対して、二体を取り巻く岩は、原画に比べてその尖り具合が鋭く描かれていたが、その写し振りは、よく模したと言わなければならない。まずしっかりした模写力のあることの紹介から始まったわけだ。
その後、三五X六五センチ位の、絹本彩色の、その彩色が黒ずんで見づらくなっていた「書画図」の一幅があった。
題名の「書画」とは、中国の文人の遊びとして、「琴棋」と並んでの嗜みであることを示しているのだから、作品は、その書と絵画とを楼台で書(描)いて遊ぶ文人達が描かれていたのだが、作者は、その舞台から松台を始め、それを取り巻く、滝壷の岩場、それを囲む木立の森、楼台から見霽かされる海と鳥と船、それらを小さな画面の中で、空白を残すことなく隅から隅まで描いていた。そこにあるのは、上手下手の問題でなく夢中熱中の問題に見えた。
その後に、似たサイズで墨画淡彩の「山水画」「州崎図」などが登場したが、何も描かれない空白部分と、遠近の墨の濃淡の差とが、作品を作るようになっており、人物画の「陶淵明図」「白衣観音図」の縦長の幅になると、その空白部分が、生彩を持ち、取り分け岩の上に座した白衣観音の顔には緩みが出てきているところに、筆者の手慣れが見て取れる。
こうして、コーナーの最後には、重文に指定されている、各一〇〇×四〇センチの墨画淡彩の「夏冬山水画」二幅が飾られていた。夏と冬の自然の扱いが実に堅く、それぞれの屹立した山水の筆捌きが湖底にまで行き届いているようで、画家の緩みのない生真面目な姿勢が窺え、描く世界に対する画
家の気組みを感じることが出来る。とにかく、真面目な画家、雪村の誕生を知ることが出来た。
次の部屋に入ると、そこでは「小田原・鎌倉滞在 独創的表現の確立」とガイドされていて、それは雪村が、五十代で常陸を離れたこと、小田原・鎌倉に止まったのが、六十代になってのことらしく、どうやら、一人の画家として、雪村の独立したのは、還暦を迎える年齢になってからのことであること、その自己の「独創的表現の確立」の遅さが、告げられていた。つまり、それほど、雪村の自立を支援する者がいなかったということか。
このコーナーには、十二、三点の作品があったが、中でも、「列子(れっし)(注2)御風(ぎょふう)図」「竹林七賢(注3)酔舞(すいぶ)図」「欠伸布図」の三点は、瀟湘八景を扱った、絵巻一巻、六曲一隻の屏風、六幅からなる軸のセットの三点と並べると、筆の自由な運びが作品の魅力を生んでいることが、よくわかった。とりわけ、下にある岩から、吹く風を袖に受けて煽られ、天を仰いで飛び上がった列子の姿には、えも言われぬ軽さとおかしさが表出していて、そんな瓢軽な飛翔の姿なぞ、おそらく
誰も描いたことのない、初めて観る作画ゆえに、嬉しくなる。
それに比べれば、七賢の酔舞い姿のあれこれは、どれも筆跡真面目な描き方でできており、まるで酔いのない、堅実な舞いの、冷めっぷりを生んでおり、また、手を伸ばして、袋を背に欠伸をする布袋も、丸い描線のどれもが真面目過ぎて、その分気ままな動作の伸びを欠いており、些か残念である。
むしろ、「百馬図帖」の二、三頭ずつを水墨によって描いた馬のスケッチ画十枚あまりに描かれた、馬の姿や、アメリカから里帰りした「竜虎図屏風」の、六曲の右隻と左隻とにそれぞれ描かれた龍と虎の顔の方が、とぼけたユーモラスを現していて、雪村自身の遊びを楽しむ、穏やかさが窺え面白かった。
そして、一番奥の部屋に入ると、そこは「奥州滞在 雪村芸術の絶頂期」となった。
奥州とは、会津の国を指すようだが、雪村の晩年は、以後、常陸まで戻ることはなかったようだ。「絶頂期」は、生まれ育った故郷より、更に奥まった地方で、絵を描き続け保たれたことになる。
その「絶頂期」の作品十三点のうち、二幅の「呂洞賓(りょどうひん)(注4)図」がまず目に入り、その一幅は、龍の額に足を乗せ、左手に持ったビンの口から天に立ち昇った龍を見上げている呂洞賓が、渦巻く風に、顎髭を吹き上げ、袖も腰紐も首紐も靡かせて、両手をぴんと広げて立っている姿を描いており、もう一幅は、同じように龍の額に足を乗せ、右手にビンを持った、その口から立ち昇っていって渦を成して見下ろしている龍の顔を、風に吹かれ、腰を屈めて見上げている呂洞賓の姿を描いていて、そのどちらも、足踏みにされた龍の恨めしげな眼の滑稽を窺わせながら、その二点の呂洞賓の姿の描きっ振りは、初めて観るもので、唖然とした出来だった。それは前の列子の時の驚きを超えた力を持っていた。
それに続いて、「銀馗図」の、剣を手に袖を捲って首を伸ばし、風に向かって目を剥いて立つ銀馗の姿の滑稽、「寒山図」の、巻物を広げて笑い立つ寒山の幼顔の緩み、横長の幅「荘子美(注5)図」の、痩せた驢馬に、後ろ向きに乗った白鬚の老詩人杜甫の飄逸等の作品が並んだが、どれも水墨の筆の勢いが見事な作品で、画家の達した、世間の目を気にしない自由の境地に、たっぷり、こちらが浸ることが出来た。
もっとも、そうした作品の一方では、三幅の「釈迦羅漢像」、「六曲一双の「四季山水図」や「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)図屏風」、どちらも六曲一双の、重文に指定されている「花鳥図屏風」と、アメリカから里帰りの「花鳥図屏風」があったが、心引かれることはなく、唯「羅漢像」の着彩のしっかりした本格的な日本画三幅は、中央の釈迦像に異存はないが、和尚姿をした羅漢達が、それぞれ五人ずつ集い語る様を描いた、左右の幅は、左が天上から見下ろす龍を、五人が驚愕して仰ぎ見ている図であり、右は一人が支え持った黒い壷から、真っ直ぐ天上に向かって立ち上る水に驚き、その水柱を五人が見上げている図で、卑俗と清澄との拘る不思議を笑っているようで面白かった。
また、二点の「花鳥図屏風」は、どちらも右隻に、雪村らしさが出ていた。重文指定を受けている方は、川の流れが、右隻の右端奥から湾曲して左へ一挙に流れる作りになっていて、その流れが雪村らしく、里帰りの方は、五曲目に突然水の流れを作って、そこに、周囲に描かれた多数の職鳥より大
きな鯉を二匹だけ描いてあるのが、雪村らしく、楽しめた。
こうして「絶頂期」の作品を観て、展示室を出ると、エレベーターで二階へ降りることになった。降りると、展示室が、左右両側に別れ、案内に従って右側へ歩み、「身近なものへの眼差し」と案内された展示室作品を観ることになった。
「身近なもの」とは、「花鳥」のことに外ならぬような、つまり、雪村は、大作・力作ばかり描いていたわけではないということを、「竹に鶯図」「芙蓉小禽図」「瓜にかやつり草図」「猫小禽図」といった作品で示していた。猫の絵も、竹の枝先に止まった鳥を猫が背伸びして見上げているのだが、猫の表情に見るべき点もなく、退屈なコーナーになっていた。
見終えると、次は「三春時代筆力衰えぬ晩年」として、雪村最晩年の作品が並んだ。雪村は、八十代を三春(福島県)で過ごし、八六歳か八七歳で没しているようだ。しかし、確かに「筆力衰えぬ」作品を観ることができた。
まず、一五0×100センチの大幅一対からなる「蝦蟇鉄拐(図6)図」があり、右幅の、松と岩を背にした鉄拐仙人が、吹き上げた息の上を、小さくなった己の姿を左に向けて走らせ、左幅の、それを受け止めるかのごとく、岩台に両手を開いて立つ蝦蟇仙人が、目先に吹き出した蝦蟇に、小さくなってやってくる鉄拐仙人の姿を、気を吹き上げて迎えさせる、そういう絵が、二人の仙人の弊衣姿の精緻な表現、仙人の息と蝦蟇の息とが向かい合う構図の妙によって、間違いなく一つの滑稽の美を表出していた。墨画に淡彩が施されている分、人物に色気も添えられていた。
その後、四匹の猿と、その前の一匹の蟹を竹林と共に描いた「猿猴図」も、まずまずだったが、六曲一隻の「金山寺(注7)図屏風」の、真ん中の二曲に描かれた、金山寺の堂塔の屋根や部屋部屋の高低・重層の、乱れのない線画の重力は、それまでに観たことのない描き振りだった。そんなに正確に描いているその寺に、雪村は行っておらず、何を手本としたのだろうと、不思議になる。細部まで重なり描かれたその寺の塔頭を見ていると、殆ど、それは雪村自身の姿そのもののようにさえ見えた。
私はもう一点、雪村の別れの作品を見た。それは、四曲一隻の「山水図屏風」である。もっとも、その前に「漁村山水図」という一幅があって、それは手前の松の木と遠くの港に宿る帆船の間の海上に、一艘の手漕舟が描かれていたのだが、それに比べれば、山水図の絵は四倍の大きさがあったし、そこには、一山を中心にそれを取り巻くように右と左に描かれた木立と人家の幾棟か、そして麓には数隻ずつの舟があり、手前の中央からそうした村への岩場に作った道を、馬に乗り、歩きして辿ろうとしている者たちが、俯瞰的な構図の中に収められている作品だった。その何も描かれていない山場の占める三曲目の広い空白が、雪村自身の重い生涯を語っているように、私には思われたのである。
私は、もう一度、「列子御風図」と「呂洞賓図」の筆捌きの軽い伸びやかさを思い返した。
その後、「雪村を継ぐ者たち」と題して、十数点の作品が展示されていたが、明治になって狩野芳崖や橋本雅邦などが、雪村の影響を受けていたことがよく分かった。そして展覧会の最後が、その雅邦の「昇龍図」だったのは、スマートな雪村が登場したようで、気持ちの良い括り方だった。
私は、喉を潤したくなっていた。二階の一画にある喫茶室へと急ぐ。昼食は、喉を潤してから、改めて場所を含めて考えようと思っている。
注1
雪舟の没後五〇〇年特別展が、催されたのは、二〇『〇二年三月、京都国立博物館でだったが、私は、それを観に行っている。
注2
中国の戦国時代、「虚」の道を得た哲人として伝えられるが、荘子の虚構によってできた人物だと考えられ、道家の典籍「列子」も、前漢時代以後になって、漸く現れたとされる。
注3
中国の魏から普への変動の時代に、世の乱れを避け、竹林に集まり、清談・飲酒を楽しんで過ごした七人の文人を言う。
注4
晩唐の道士で、名は巌、号は純陽子で、道教神として敬われ、中国の民間伝承として認められている八人の仙人の中の一人。
注5
「子美」は杜甫の字。杜甫は、科挙に敗れ、宮廷での出世を断たれ、放浪の後半生を送る。
注6
蝦蟇、鉄拐共に仙人。鉄拐は、八仙の一人。
注7
中国江蘇省、揚子江中流にある名刹で、雪舟は中国へ渡ってこの寺へ寄っており、作品にも残しているが、それからすれば、雪村の作品は、想像によるものだということになる。
(二〇一七、五、一〇)
以下次号