川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

遙けくも来日した壁画が語るー『Alfons Mucha ミュシャ展』に遊ぶー

 四月十五日、午後三時も近くなって、東京六本木の国立新美術館を訪ね『ミュシャ展』を観た。

 アルフォンス・ミュシャの壁画が、揃って日本にやってくることは、もう半年も前から聞き知っていて、知るや否や、直ぐ、何はさておき観に出掛けようと決していた。

 私が、ミュシャの展覧会に接したのは、手許の図録『アール・ヌーヴォーの華 アルフォンス・ミュシャ展』によって、一九八三年の春のことだと分かる。場所は、新宿の、出来たばかりの伊勢丹百貨店新館の、八階に設けられた伊勢丹美術館だった。

 私にとって、ミュシャは、若い女性の様々なポーズを、柔らかな線と色とが織り成す、縦長のポスターとして纏め上げる名人として、しかと認知されていたから、そのミュシャの、色々な歴史的物語の挿絵の見事な下書きや、フランスから故国チェコへ帰って以後の、民族的特徴の強い女性のポスター等、その全ての作品に、自分の感性がよく馴染んで、違和感なく親しむことができた。

 このため、この年、この展覧会が、名古屋の松坂屋美術館へやってきた際、もう一度ミュシャに会いに出掛けた事を思い出す。

 それから十年後、一九九四年の四月、そのミュシャ展が、全く同一のタイトル『アール・ヌーヴォーの華アルフォンス・ミュシャ展』を名乗って、今度は、堺市博物館で催され、その時も、私は、又、ミュシャに会いに出掛けた。

 それにしても、どうして、アルフォンス・ミュシャの展覧会が、堺などで催されたのかと言えば、その時の図録のタイトルの頭にある「関西国際空港開港記念」の語が、それに応えている。

 このところ、関空のホテルに宿泊して海外に旅立つことが多いが、そんなに親しく関空を利用するようになったのも、三年前の関空開港記念のミュシャ展があってのことなのだ。

 しかし、何故ミュシャでなければならなかったのか。展覧会の図録には、主題の後に今一つ、「美しき出会い――与謝野晶子とアール・ヌーヴォー」の一句が添えられていて、その言葉がそれに応えている。

 堺は晶子の誕生の地であり、その晶子を『みだれ髪』の歌人として育んだ場が、雑誌『明星』であって、その『明星』こそは時代の先駆けを意図した雑誌だったが、「アール・ヌーヴォー」の画家ミュシャのポスターを、その雑誌『明星』は何点も借用していて、誌面を飾っていたのである。

 ミュシャに関しては、その後、二〇〇三年、私は、妻と、中欧旅行のツアーに参加し、プラハに寄ったが、プラハ市立美術館でミュシャ作品に出会う予定が、美術館に入館できなくなり、その結果生じた自由時間に、街のミュシャ美術館を訪ねることにした。ところが、そこに展示された作品の多くは、既に観たことのあるポスターで、美術館の佇まい共々、がっかりした事を思い出す。

 ただ、プラハでは、各自で夕食をとるようになっていたので、レストランを求めて、私たちは街を歩き、Mucha』というレストランのあることに気付き、思い切って入った。

 入ると店内の壁面殆どが、ミュシャのポスターで飾られていて、そのポスターに見守られながら、ゆっくり夕食を楽しむことが出来た事だけは、よき思い出となっている。

 そのミュシャが、やって来るのだ。それも、私がこれまで観た二つのミュシャ展で、それぞれ三、四〇センチ大の『スラヴ叙事詩』の習作に出会っていたのだが、その壁画化された実物、二〇点の全てが、世界で初めて来日するというのだ。プラハまで行って、気抜けして帰った私たちからすれば、こんな有り難いことはなく、これを見逃す手はない。

 私は、上京し、乃木坂駅を出て、美術館入口へ向かう。

 入場券売場前に行くと、長蛇の列が出来ており、切符の購入までに三〇分を要した。

 折しも、女流画家・草間彌生の展覧会も開かれていて、隣合わせたその入場券売場には、もっと長い列が出来ていて、ミュシャを越える人気を示していた。だが、私に、その人気に乗る気はない。もっとも、草間彌生の展覧会は、何年か前に見ており、その時買った草間彌生デザインの赤いテーブルクロスは、今も時折リビングのテーブルを飾っている。

 ミュシャの会場は、三階の一番奥、国立新美術館の企画展の内、最も重視されている企画の会場として用いられる、その会場で開かれていた。草間彌生の作品は、二階で展示されているようだった。

 ミュシャの会場入口でチケットのチェックを受けてから、展示室へと歩き、入口より一歩中へ入って驚いた。何点かの大きな作品で壁面が飾られた部屋は、入館者の息切れで埋まり、その息で部屋は溢れんばかりの熱気を醸し、その熱気に観客の群れは波となって揺れ動き、天上高くまで取り付けられた壁画の大きさ、不動性を際立たせていた。

 壁面を飾るミュシャの作品は、何と大勢の人を抱き込み巻き込む程に、大きなものか。

 まず入った左手の壁には、『スラヴ叙事詩』の冒頭の一枚、高さ六メートル幅×八メートル位の「原故郷のスラヴ民族」があった。その絵が広大な星空を背に描かれており、その右上部には、それがスラヴの神だろうか、キリストのように両手を広げて天を仰いで宙に浮かび、その両脇の、左に剣を下げた若者、右に緑葉を白衣の頭につけた娘が縋り寄りながら下がっている。一方、左下の草むらの中には、これまた白衣に身を閉じた母と子が、脅えた眼差しをこちらに向けて蹲っている。その上下の間の地の果てに砂を蹴立てて争っている軍馬の群れが描かれている。

 平和を勝ち得ていない、スラヴの民の祈りが、この騒然とした人出の中で、星空の光の冷たさと共に、揺るがぬ静けさを齎すように感じられる。

 そして、その眼が、右(部屋へ入った時の正面)に動けば、そこにも、六×八メートルの巨大な「ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭」一点が掛けられ、その壁面を占めていた。

 その祭の絵の上部には、広がった菩提樹の枝葉の下に、男の神が腕を延ばして宙に下がり、その下に数珠繋ぎになった何人かの男達、その体を神に凭れかけている、乗馬の上半身裸の兵士、更にその左手には、宙づりの者たちに襲いかかろうとしている何匹もの猫が見える。その砂塵巻く下界の大地には、赤子を抱く母親を始め、親子で群がる祭礼の参加者が、多数描かれている。

 大きなその絵の前に、入館した客がまず流れ込み、スラヴの昔の祭りと同一の、現代の祭が演じられている。

 そして、その祭の絵の前を右へ曲がれば、最初の「原故郷のスラヴ民族」の真向かいに、これまでの二点と同じ大きさの「スラヴ式典例の導入」が掛かり、ここでは、下界の宮殿の前の大地に、前の絵同様式典に参加している大勢があるものの、その右手上には、四人の神々が士農工商を代表するかのごとく描かれている。

 明らかに三作品を通じて、スラヴの民が統率されていく、時代の移ろいが描かれている。

 そして、この部屋の、左から巡って残った、右側の壁面には、どれも四×四、八メートルの、三点が並べられていた。四番目から順に、「ブルガリア皇帝シメオン一世」「ボヘミア王プシェミスル・オタカル二世」「東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン」となっていたが、それぞれの皇帝を中心に据えて讃えてあり、中では六番目の作品が、他の二点の王が、室内の人々の中で、立ち姿で描かれているのに対して、屋外の長い行列の中を歩む皇帝と、それを見守る地域の大勢の人々の広やかな光景になっていた。いずれも、スラヴの民が、神聖ローマ帝国の成立する過程で落ち着いていく十四世紀頃までの、国の成立を物語るものだった、その史実を描いたもののようだ。

 それにしても、観客の混乱状態は、そのまま、この部屋の歴史的混乱の推移の過程に重なっているようで、面白い。

 この部屋を脱して、隣の部屋に移ると、今までの倍はあろうフロアになった。

 前の部屋の密集混雑が嘘のように緩み、広いフロアを前に、して、四つの壁に、二乃至三ずつ掛けた、七から一六までの九作品を、観て回ることになった。

 人々の中には、フロアを横切って、右往左往しながら、絵のそれぞれを見比べる楽しみを満喫する人もある。広い空間に存在する大きな絵の群れは、長い時代の歴史そのものを、包むようにして我々の前に開示しているのだ。この大きなフロア空間の中で、小さく見える観客の、その小ささに、自分も陥っていること、そういう幸せを体感できることに、感謝しなければなるまい。

 その入った左の壁には、四×六、一メートルの「グルンヴャルトの戦いの後」と、もう十センチ横に大きい「ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々」とが並ぶ。

 前者は、残雪が広く残った斜面に、敗れたドイツ騎士団の兵士や馬が累々と横たわり、中央に勝者のボーランド王と一段下がってその兵士達が、国境線であろう川を臨んで立っている絵であり、後者は、雪に覆われた大地の右寄りの一端に、眼下に広がる海に向けて置いた椅子に、黒く項垂れたまま掛けている男と、その左下の手前に、こちらに面を伏せて、両手を上げて立つ男とを描いた絵である。後者の椅子に掛けた男は、海の彼方の故国ポーランドを恋いながら、息を引き取ったのであろう。

 そして入った右手正面の、長い壁には、中央に六×八、一メートルの「ペッレヘム礼拝堂で説教するヤン・フス師」を掛け、その左右には、どちらも六、二×四メートルの同サイズの作品、「クロムニュジーシュのヤン・ミリーチ」(左側)と「クジーシュキでの集会」(右側)の二点が掛かっていた。

 この三点は、チェコの宗教改革を勧めたヤン・フス派の活動を伝える作品のようで、左のヤン・ミリーチの絵は、彼が、娼婦たちの家を壊し、新しい生活をさせる修道院を造る、その建築の場を描いているらしく、右の絵は、フスの信奉者コランタが、聖体拝領の祈りを進めようとしているところを描いたものらしい。そして、中央の絵は、題どおり、ヤン・フスが聖堂内の説教壇から身を乗り出して、大衆の聴者―――その右端には、特別席に王妃が座す―――に向かって説教している、そのゴシック様式の高い天井に声の響く堂内が描かれている。

 更に、フロアの右手奥には、向かって左側には六×八メートル大の「ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛」、その右には、四×四、八メートルの「ヴイートコフ山の戦いの後」があり、どちらも戦争を扱いながら、敵と闘う状況を描いてはいない。前者では、トルコ軍の、攻撃を守るために場内の準備を整える描き方が、まるで闘いのように描かれており、後者では、プラハの市民軍が、カトリックの十字軍に勝った後の、戦場の一端、市民軍の隊長に、司祭が、神への感謝を捧げている場面で、兵器は、地の上に並べられ、そこに隊長の剣が突き立てられていた。

 こうして、このフロアで、九枚の作品を観ることができた。

 そして、残りの五点の掛かる三つ目の部屋に入る。その部屋では、写真の撮影が許されていたが、私は、ロッカーに手荷物を入れた時、カメラも一緒に預けてしまって手元になく、お陰で撮影の遊びを楽しむことは出来なくなった。この部屋も真四角なフロアだったが、前のような広さはなく、その分フロアの広い前の部屋に比べて、人の密度が、最初の部屋ほどではないにしろ、高くなっており、一方、作品には小さいものが増して手近になり、つまり、カメラのシャッターが切りやすくなる近しさを持っていた。

 入室して、すぐ左の壁に、まず六×八メートルの、雪に覆われたモスクワ赤の広場に霞む大聖堂を背に、農民や巡礼者が集う場面を描いた「ロシアの農奴制廃止」が掛かり、正面の壁の、左に四×四、八メートルの「聖アトス山」、その右に三×六メートルの「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナの誓い」―但し、この絵の中程の左右に描かれた人物像は明らかに完成しておらず、未完のままで終わっていた―――の二点、その壁面の向かい側の、入って右側の壁には、六X八メートルの今一点の大作「イヴァンチツェの兄弟団学校」があり、奥の出口を控えた壁には、二〇枚目の作品、四、八X四メートルの作品「スラヴ民族の賛歌」が掛かっていた。

 最後の「スラヴ民族の賛歌」は、賛歌に至るまでの一九枚によって積み重ねられてきた、「スラヴの叙事詩」の世界を受け止める力を持っていない。長い歴史のあれこれを詠み込んできた叙事詩を、何点かあった大作の、二分の一にも及ばない一点の作品で受け止めるなどということは、とても適わぬことなのだ。その一点が優れた作品だとしてもである。

 そのことに、ミュシャは、気付いていたのではないか。『スラヴの叙事詩』の最後を締め括る一点を描こうとすれば、その大きさは計り知れなくなるだろう。その計り知れない大きさの「賛歌」の、描き得ないことを、花輪を両手にした、その手をいっぱいに広げて立つ裸の青年と、その画面の真下から、その青年に向かって、両手を広げて万歳を叫んでいる女の子の後ろ姿とが、殆ど悲しくなる姿で語っていた。

 その締め括りの、狭くなった絵の脇を抜けて、『スラヴの叙事詩』の展示室を後にして新しい空間に出て、ああ、これで終わったかと長い一息をつく。

 ところが、部屋の入口には、「ミュシャとアール・ヌーヴォー」という言葉が、横長に掲げられており、三〇センチほどの鉛筆描きの「自画像」に始まって、見慣れた二メートルはあろう「ディスモンタ」「メディア」「ハムレット」等の、リトグラフのポスター作品や、一メートル大の「四つの花」の、四枚の花と共に描かれたそれぞれの美女像作品が、並んでいた。

 それらの作品は、どれも昔、堺博物館で観たことのあるものだったが、目前の作品の全てに目を遣れば、その所在が「堺市」と記してあるのに気付く。二〇年以上前、接したミュシャの作品が、どうやら、全て堺市によって買い取られていたことが分かる。

 私は、この展覧会が、二〇点のミュシャの壁画作品『スラヴの叙事詩』の展示だけで成り立っているのでなく、「ミュシャの作品展」にもなっていることに気付く。どうやら、この先、このミュシャの作品展示が、壁画の作品展の膨大な空間の脇道を一続きにして、出口まで続くことが予想されてくる。

 そして、今、目の前に、二〇年前、堺市博物館で間違いなく見た、「舵のブレスレットと指輪」や「ラ・ナチュール」の、宝飾やアール・ヌーヴォー的裸婦像、暖炉のマントルピースの飾り絵「ウミロフ・ミラー」、二メートル平方はあろう、装飾性の強い大作「クォ・ヴァディス」、一、五×四、五メートル大の、その色彩も表徴的描き方も「スラヴの叙事詩」に似ている「ハーモニー」が、全て「堺市」収蔵の作品として登場していたのだ。

 そして、コーナーが代わったことを「世紀末の祝祭」の掲示によって知らされると、このコーナーの、「プラハ市民会館」の壁面を飾っている壁画が、十数点並び、特に会館の柱の上部を飾っていると思われる丈の長い三角形の作品は、初見の物ばかりで、ミュシャのデザイナー的才能を知ることが出来る。

 次に「独立のための闘い」のコーナーになると、作品は初見の物であり、水彩画の数点の「同胞のスラヴ」が、プラハ市立美術館所蔵であるのはともかく、「全国ソコル祭」「ロシア復興」「独立一○周年」「イヴァンチツェ地方祭」等の祝典・祭礼を記念してのポスター作品が、日本の「堺市」や「O

GATAコレクション」の所蔵になるものばかりだった。

 「スラヴ叙事詩」以外の「ミュシャ展」部分を飾った作品は、八〇点ほどあったが、顧みると、堺市の所蔵になる物は三五点、OGATAコレクションの所蔵になる物は二〇点はあったように思う。

 最後の売店へ出てくると、前半の、「スラヴ叙事詩」二〇点の、大きさが改めて蘇ってきて、この大作を、遙けくも日本まで運んでくれたことに、心から「ありがとう」と言いたくなる。―――ありがとう。

 今日、この展覧会は、ふた昔前、私がミュシャ好きに陥った、私の一つの原点になる世界が、間違いなく現実に存在ししたということ、それがどんなに大きな豊かさを持っていたか、私に確かめさせてくれたことになる。

(二〇一七、四、二五)

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