川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

眼差しの哀しみ

 あゝ、一体自分は何を見ていたのかと、日頃その目の節穴 振りを自覚していないわけではないが、私は、見えていなか ったものの大きさに気づいて愕然とし、ほとんどその場にヘたり込みたい感覚に襲われていた。気を、やっとのことで取り直し、私は改めて目を凝らしたのだが、凝らした相手というのは、荻原守衛の有名なブロンズ像の『女』である。あの、手を後に組むようにして膝を立て、胸を迫り出すように伸ばして顔を上に仰向けている重要文化財指定の裸像である。

 有名なこの作品は、美術全集の写真などで見知っているだけではなく、かつて、確かに『戸張孤雁と大正期の彫刻』展の会場だった愛知県美術館と、開館記念展の東京芸術大学美術館で、私はその現物にも出会っていた。

 そして、何年振りかで、この守衛の『女」の前に立っていたのだが、今度は、改装後始めてで久しぶりの、竹橋の国立近代美術館における目見えだった。私は『青木繁と近代日本のロマンティシズム』展の開催を待ち兼ねて上京し、教え子の女性と言っても最早色気を失った六十過ぎの婆さんだが❘と待ち合わせて、初日の三月二五日、開館間のない時刻に入館したのだった。外は生憎の冷たい雨で、入館者も少なく、教え子の靴のケチャケチャ引きずる音が気になって、私は困った。だから、気になる靴音を逃れるためにも、作品に、気安く身を寄せて見る心理的必然が齎されていたのである。しかし、それにしても驚いた。これまでの先入観が、先入観でしかなかった事実に気づかされたのである。私が顔を近寄せて見た『女』の仰向いた目は、何と、上に向かって見開かれてなぞいないのだ。厚い瞼が重く覆い被さって、目は薄く開かれて前方を見ているに過ぎない。その重く覆い被さった厚い瞼を見ていると、『女』の顔が何故か哀しみを湛えて見えてきたのである。哀しみが、組まれた後ろ手と、既に娘らしい張りを失った乳房とによって、しかも、それにも拘 わらず、膝を立て胸を伸ばし上を仰ぐ姿勢を示していることにもよって、いや増しに増してくるのだ。これは間違いなく『女』の哀しみの表現だった。その哀しみの深い重さを、目を覆わんばかりの厚い瞼に、私は漸く発見したことになる。

 展示カードには、この作品が、一九一〇(明治四三年)に 作られ、第四回文展に出品されたものであることが記されて いるが、この作品には、守衛が密かに惚れていた、新宿中村 屋の相馬黒光の面影が宿されているという専らの評判があって、そういう評判を呼ぶだけの遺作(守衛は、作品が出展された秋、既にこの世にいなかった)としての悲劇性を忖度させやすくする悲哀が、内包されているということだろうか。それにしても、明治四三年といえば、平塚らいてうの『青鞜』が発刊される丁度前の年だが、それに気づけば、この作品が、時代の桎梏から自らを解こうとして解き放ち得ないでいる女性というものの、哀しい現実の表現だったと読むことは、充分できることになろう。が、こうした解釈は、この作品の厚い瞼が私に伝えた、盛りを過ぎた女の肉体そのものの哀しみの生々しさを虚ろにしかねない。私は、その哀しみに共鳴する律動の中に自失している幸せな状態で、もう少しいたいと 思った。

 この幸せな状態を、私は、青木の油彩画の小品「女の顔」 と、村上華岳の同じく『女の顔」と題した四点のスケッチとに描かれた、それぞれの女性の眼差しを見ることで繋ぎ続けることができた。

 青木の描いた女のモデルは、恋人の福田たねだそうだが、描き手である青木に向かって何事かを訴えるかのように大きな瞳を見開いていて、この時既に、たねが青木の種を腹に宿していたのではないかと考えると、この瞳の表情の切なさが私の腑に落ちた。それに比べれば、村上華岳の描く女の目は、描き手の華岳を見ていないのは無論のこと、瞳の先の何物をも見ていない目だった。にもかかわらずその目は、どこか遥かな何ものかに、じっと思いを注いでいるのだ。青木の女のどちらかと言えば近代的な相貌に比して、華岳の女のそれは、控えめに見えて芯の強い、古い京都の女を想像させた。それは、表に出ようとする意志の煌めきの中に見える切ない目と、己を封じ込めて無表情にまでなった、まるで凝縮した情念とでもいったものを感じさせる、深い悲涼の目との違いと言ったらよかろうか。

 こうして女の目に魅入られながら歩いているうちに、教え 子からすっかり離れてしまい、彼女の靴の音も聴野から消えて、いつの間にか、私は四階の常設展示場へと足を運んでいた。そして、青木繁たちが活躍したのと同じ頃の明治四十一年に作成された、新海竹太郎の『ゆあみ」の前に久しぶりに 立っていた。

 改装前は、もっと明るく広やかな感じのあった展示室で『ゆあみ』を見たはずだが、今度は明度を落としたほの暗い光の中での出会いになった。おそらく作品の保護を建前にしてのことだろうが、今度の改装で、展示室が全体に照明を落とした暗い感じになっており、作品が見づらくなったことは確かである。あるいは、こう感じること自体、目の老化のなせるわざか。

 私は目を凝らさねばならなかった。目を凝らす動作が、い きおい作品に私の体を近寄らせる。そして、湯浴みから出て、濡れた薄絹で胸から下を覆うようにして伸びやかに立った女の、伏し目がちな顔に間近く閲することになった。下から仰ぐように間近に見たその目は、意外にも大きく見開かれていて、しかし、それと彫られた瞳を持っていなかった。少なくともそう私には見えた。その瞳を持たぬ見開かれた目に私は見つめられ、目としての無、あるいは無限の透明さが、一瞬のうちに私に伝わると、その無限の透明感が、たちまち澄明無心な、そうとしか言いようのない哀しみに結晶して私を打った。私はまたもたじろいだ。

 と同時に、私は、今し方見た青木繁の『温泉』という油彩画のことを思い返した。『温泉』には、浅い湯槽の中で、長い髪の毛を梳っている女の立ち姿が、背後の幾本もの花開く大輪の白百合と共に描かれていた。そして、その絵の前に立った時、それについてはもう誰かが言っていたはずだが、この絵に影響を齎していると見られる、与謝野晶子の『みだれ髪」の歌、「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」や「ゆめみする泉の底の小百合花二十の夏をうつくしと見ぬ」を連想したことも思い返した。

 そして、さらには、晶子の「その子二十」の歌に影響を齎 したと思われる、裸体画騒動を巻き起こした作品、今は焼失してこの世にはない、黒田清輝の、鏡の前に立つ湯上がりの女を描いた『朝妝』にまで、私は連想を測ったのだった。

 『温泉』の女は、明るい光の中に描かれてはいたが、顔の 部分だけはほの暗く「朝抄』の女が顔を鏡に向かって立てているようには、顔を立ててもいなかったし、晶子の歌のように、自らに「おごりの春」を見、それを「うつくしきかな」 と嘆じて見せる溌剌の気概も窺えなかった。青木の描いた白百合が、花言葉どおり処女の徴だとしたら、描かれたその大 輪の絢爛振りにも拘わらず、青木の描いた湯浴みする女は、晶子のような美々しい乙女の誇りを謳歌しているとは見做し得なかった。

 そして、今、新海竹太郎の『ゆあみ」の女だった。私には、「ゆあみして泉を出でしわがはだにふるるはつらき人の世のきぬ」という『みだれ髪』の歌が、今度も連想された。そして晶子が、身に纏わねばならぬ「人の世のきぬ」を、「つらき」ものとして捉えることで、「泉を出でしわがはだ」を自負背定しようとしているのに対して、目の前の女は、世間の目を憚るかのように、薄い布で濡れた体を覆っており、覆っていることで、恥じらう肉体を人目に晒す羞恥の心を目に宿し、結果として作品としての迫力を優しくしていた。どうやら、青木にも新海にも、女の肉体そのものを、女自らが誇る花として感覚することはできていなかったように思われる。目の前のこの女の、瞳を失った目の哀しさは、エロスの対象として男から見られねばならぬ、女というものの存在それ自体に対する哀しさであるような気がした。少なくも新海が感じ取っているものはそういうものだと思われた。そしてそれが、この女の楚々とした顔立ちによって、一層醸し出されている。そして、そう感じ取っているということは、私もまた、古い時代の感性を育んで生きてきた男として、女の目にとかく哀しみを見てしまうのではないかと、そうも思ったのである。

 それにしても、私は、私に語りかけてくれた女の目に思い もかけず近しく出会って、ひどく得をしたような気分になっていた。それは、旧知の人に改めて親しさを見出だしたような喜びで、私の目は、連れの女性の姿を俄に捜し求めだしていた。

 やがて昼だった。

 私は連れの教え子の女性を誘って、美術館のレストランに行った。ガラス張りのレストランの向こうには、雨に煙るお堀端の石垣と松を見やることができた。私は、ここでのランチの一休みに、今日の至福が待っているかのように錯覚でき、入り口のガラスのドアを明けたものである。

(二〇〇三、五、四)

 

 

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