川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

妖と幼の怪、聖の隠逸ールーカス・クラーナハの魅力ー

 私が、日頃、十五世紀から十六世紀にかけての、ドイツのルネッサンスの画家として、その人物作品の特異性から最も興味深く思ってきている画家に、クラーナハがあるのだが、そのクラーナハの作品を集めて、日本で初めての『クラーナハ展』が、国立西洋美術館で催されることになったのである。私にとっては、一大事件である。

 同時代のドイツの画家としては、銅版画家の、デューラーという、クラーナハ以上に評価の高い画家がいて、これまで開かれたそのデューラーの展覧会は、逃すことなく見て、満足をしてきていたので、今回初めてのクラーナハの展覧会を、彼への関心がデューラー以上であるからには、私に、それを見過ごすことは許されない。

 十一月二十五日、朝、私は上京して、上野に出る。山の手線の公園前口から西洋美術館に行き、ロッカーに荷物を入れると、身軽になって地階に降り、入館した。

 入室して、最初に出会う掲示見出しとガイド文の壁面は、見出しだけに目を遣るのが私の常で、その見出しを読むと、「蛇の紋章とともに―宮廷画家としてのクラーナハ」とあった。クラーナハが宮廷画家だという以上、彼が、皇帝から画家の格を認められた絵描きで、紋章は、その皇帝の認知の記しとしての、公印のことになるだろうと想定したが、それをガイド文に目を走らせて確かめた。

  すると、クラーナハは、一五〇八年に、ザクセン侯国フリードリヒ選帝侯から紋章を授けられたようで、その紋章の図が、蝙蝠の羽を付け、頭には冠を被り、ルビーの付いた指輪を口に咥えた蛇をデザインしたものだとあった。

 お陰で、以後、作品の一隅の、目立たない場所に、目立たない描き方でこの紋章が描かれているのを、目が追い求める羽目になった。

 その、クラーナハの描いた「ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公」の肖像画が、デューラーの描いた「神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世」の肖像画と並んで、展示の冒頭を飾っていた。デューラーは、一五二〇年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に、宮廷画家として招かれていたのであり、支えとして仰ぐ権威としては、「選帝侯」より「口ーマ皇帝」の方が偉大に私には見える。その差が、ヴェネチュアでルネッサンス絵画を学び、その徹底した写実力を銅版画に結晶させていったデューラーと、そういう写実性からは逸脱することによって、その魅力と人気を得てきたクラーナハとの違いを、今日に伝えているということか。

 しかし、この二つの肖像画は、それぞれに精密な写実によって描かれているように私には見え、クラーナハの写生力を蔑してはならぬと思った。

 この後、クラーナハの油彩画十点と、木版画(内一点は手彩色が施されている)七点、それにデューラーの銅版画、アルトドルファーの木版画各一点があったが、それは、主役のクラーナハの油彩画の内容が、クラーナハ以外の画家作品からの影響を受けて成立している経緯を証そうと企てられた、そういう展示法になっているのだと思われた。

 まず、メインの油彩画は、聖母子を描いた三点となって登場した。作品はそれぞれ「ブドウを持った聖母」「聖母子」「聖母子と幼き洗礼者ヨハネ」と題されていたが、聖母は、優しいという以外に格別の美しさも清らかさも、可憐ささえもない顔立ちで、抱かれた裸のキリストもまた、無表情で聖母への甘えもない退屈な出来栄えだった。

 それに、何より「聖母子」で、キリストに乳を飲ませる聖母の豊かな乳房が、私に強く印象付けられているクラーナハの裸女たちの、小さい固めの乳房とは全く異質の大きさで、クラーナハらしさを欠いており、つまらなかった。

 次いで登場した「幼児キリストを礼拝する幼き洗礼者ヨハネ」の幼児も、左右対のパネルとして描かれた「天使に囲まれた聖家族」と「聖母の教育」の二点に描かれた多数の幼児姿のエンゼルも、まるで表情に可愛さがなく、私をがっかりさせた。そうした中で、ただ一点「聖カタリナの殉教」の、騎馬や兵たちが山のように昏倒しまくっている中、合掌して跪くカタリナを、その背後から処刑人が斬首の刃を手にした構えで立つ、混乱壮絶の劇画漫画的作品の迫力は、私の目を引いた。その漫画的表現は、「馬上の聖ゲオルギウス」や「鎧を着た馬上の騎士」といった木版画を介して裏付けられており、その漫画性は、デューラーの銅版画の、劇画性の高い「騎士と死と悪魔」の表現との対比によって際立つように仕組まれていた。

 こうして、些かがっかりしながら次の部屋に移ると、「時代の相貌肖像画としてのクラーナハ」となった。

 そして、ここには肖像画作品十点が並んでいたが、私が期待するクラーナハらしい出来の作品は、二OX一五センチほどの小さい「シュビュレ・フォン・クレーフェ」という中年女の肖像と、五○×三五センチほどの「神聖ローマ皇帝カール5世」の肖像二点があっただけだった。この二点だけには、顔にクラーナハらしい漫画的滑稽味が出ていたが、肖像画として優れた作品という感じはなかった。ただ、「ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯カジミール」という四〇センチ大の、頬髭の美しい貫禄ある中年男性の肖像画は、その作者を問うことなく優品と見なすことが出来た。

 肖像画の最後の二点は、「ザクセン選帝侯アウグスト」とその妻「アンナ・フォン・デーネマルク」のそれぞれ黒地に金筋の装飾柄を織り込んだ衣裳の、正装スタイルの直立の全身像で描かれていたが、その描き手は、「ルーカス・クラーナハ(子)」となっていた。

 どうやら、クラーナハの子供で、父親のあとを継いだ息子の画家が、父親同様に名乗ったということだろう。晩年、クラーナハは引退し、名を画家になった息子に譲ったということか。二点は、肖像画として精密な描写ができていた。

 そして、三つ目の部屋に入ると、「グラフィズムの実験―版画家としてのクラーナハ」となった。今度は、彼の版画六点と、ショーンガウァーとデューラーの版画が一点ずつ、計八点あるだけの小部屋だった。見る気負いを殺がれること夥しい。

 その最初の木版画は、二五×一五センチほどの小さな「マグダラのマリアの法悦」と題した作品で、全裸のマグダラのマリアが、こちらは全部衣裳を纏った七匹のエンゼルに取り付かれて、宙に引き上げられている様が描かれておりマグダラのマリアの陰部は、エンゼルの羽で両側から覆われていた。この絵の面白い所は、言うまでもなく、エンゼルによって、絵の主部が宙に浮かんでいることだが、それにつれて、地上の世界が、画面下段に遠望されるように描かれていることである。

 これまでのクラーナハの版画は、遠近こそあれ全て地上の表現だったことを思えば、天上と地上の二つの世界の一面での表現は、マグダリのマリアの取り扱い共々、面白い。

 そこに更に、これまでの版画群の中で最も大きい、四〇×三〇センチ大の「聖アントニウスの誘惑」図が、ほぼ同じサイズの、デューラーの連作『黙示録』中で最もよく知られた、「龍と闘う大天使ミカエル」の図と併置されて、登場した。

 デューラーの「大天使ミカエル」の方は、羽を広げたミカエルが、仲間の天使たちと槍を振るって悪魔の妖怪たちを踏みつけ叩きのめしている天空の場面が描かれ、その葛藤の下に、下界の風景が広がって見えるようになっているが、クラーナハの「聖アントニウスの誘惑」でも、悪魔たちにアントニウスが襲われ格闘する天空と、それとは遠く隔たった下界とからなる構図には、それが、デューラーの『黙示録』の成立十年後に作られたことからすれば、デューラーの影響を見ることは容易なことになる。

 ただ、「聖アントニウスの誘惑」では、地上の眺めを下界に見て天空に聖アントニウスの葛藤が描かれているところは、デューラーの扱いと同じなのだが、主人公の隠遁者聖アントニウスは、デューラーの大天使ミカエルと違って、夢中に登場する誘惑者の怪物たちに取り憑かれ、虐待拷問を散々に受ける存在で、その結果、アントニウスの顔も形も定かではない様態で描かれているのだ。聖者が聖なるゆえにいじめを受ける、そこに主題の面白さを選ぶ、クラーナハの漫画的好奇心を見ることが出来るように思う。

 こうして、四つ目の部屋に入ったのだが、すると「時を超えるアンビヴァレンス――裸体表現の諸相」との告知があり、漸く、私の最も当てにしてきたクラーナハのエロスの表現世界に出会えることになった。些か嬉しくなる。

 しかし、小さな弓矢を手にし、背中をこちらに向けて立つキューピッド像から始まり、それに続けて、版画ほどの大きさしかない、全裸の姿を描いた油彩の「ヴィーナス」像が登場した。が、その作品の背丈が、キューピッドの方が大きいのだから、目への影響は何とも始末が悪くなる。

 それでも、小さなヴィーナスは、透明なヴェールを両手に広げ持って、全裸の己が前を覆って立っているのだが、その透明な布は、陰部を隠すことは出来ず、陰部が露わに見られることを許してしまっている。そういう風に作られたエロティシズムが、私にはクラーナハらしく見える。

 そして次に登場したエロス世界は、「アダムとイヴ(堕罪)」の小振りな油彩画だった。それが、これも著名でいち早く見知っている、デューラーの銅版画「アダムとイヴ (堕罪)」と併せて展示されていた。

 デューラーの人物は、男女ともに、その筋肉が肉体の凹凸明暗を作っているのに対して、クラーナハの二人には、筋肉が作る明暗はその肉体のどこにも見られず滑らかある。そして、イヴの乳房は、どちらも小ぶりに描かれていたが、デューラーの方は、ほとんど筋肉の膨らみのように見え、クラーナハの方は、これぞクラーナハらしく、女性の性徴として、小さく柔らかく、乳首は、その摘み心地を思い遣ることができるまでに描かれている。

 そのイヴの胸元に、林檎を手にしたアダムの手甲が差し出されている二人の接し方は、まさしく「堕罪」という題名に通っており、林檎の木の前で、アダムとイヴが互いに向き合って立つデューラーの作品より、遥かにポエティークに見えた。

 続いての裸体表現は、約五〇×七〇センチの「泉のニンフ」という作品になった。それは、遠景に町の姿を望み、背後に洞窟と池を控えた草地に、赤い衣類を枕にして、ニンフが一人、半ば眠るかのように目を閉じて、全裸で横たわっている。その足元には鶉のような鳥が二羽、同じく足元から生えた木の幹には、何故か弓と矢立てとが下がっている。よく見ると、ニンフは、胸に赤いルビーの首飾りを下げ、透明なヴェールを膝下まで纏っている。

 しかし、こんな寝ている裸女に出会うと、著名で評判の高い、同じように草上で横たわる美しく堂々たる裸女を描いた、ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」が、たちまち回想されてくる。併せて、ティツィアーノの、室内のベッドに横たわる「ウルビーノのヴィーナス」のような裸像も思い出されてくる。

 クラーナハのこの「泉のニンフ」は、そうしたルネサンスを代表するヴィーナスの横臥像を、当然踏まえているはずで、それがニンフ像と断られているだけ、滑稽味を持った、作者のアイロニカルな眼差しを、そこに見るような気がする。だが、残念ながら、私には、ルネサンスのヴィーナスたちの堂々とした裸像の前では、このシオン像が、可愛さも超えたいじけたものに見え、その分面白さも削がれてしまうことになった。

 さらに続いて、クラーナハの裸体表現として、私の気になっていた作画に、裸女の群像があったが、その実例として、「ディアナとアクタイオン」と題した、池の中で七人の女性が水浴びをしており、池の辺にいる犬や鹿と戯れている絵が登場した。しかし、その池の中の裸女たちは、今一つ、その皮膚の色にクラーナハらしい赤みを欠いており、乳房も今一つ、クラーナハらしい張りのある小ささの美を欠いていた。

 私は、急いで今一度、作品の案内カードに目を遣った。すると、何とその作者は、「ルーカス・クラーナハ(子)」と記されている。私は、そうかと納得しながら、それ以上は、水の中の裸女たちの絵が現れないことに、落胆気分が大きくなった。

 その落ち込みを庇うかのように、その後、三点の「ルクレティア」と「正義の寓意(ユスティティア)」の一点の、油彩画が並んだ。

 三点のルクレティアハは、どれも、右手に持った霜剣の刃先を鳩尾に立て今まさに突き立てんばかりである。しかし、一五一〇年の作品には、ルクレティアの顔にも、その乳房にも、まだクラーナハらしさがないが、一五二九年のルクレティアになると、衣裳の銀と赤との使い分けは勿論、恨みの思いが眼差しによく出た表情、乳首優しい男とは言えぬ小さめの乳房に、クラーナハらしさが結晶して見栄えを高め、一五三二年の三作目になると、それまでの上体の表現から、闇を背にしてクラーナハらしい女体美を浮上させて立つ、全裸の全身像を、前に掛かった透き通るヴェールを透かして見得る、ほぼ完璧なポーズによって描かれていて、今日の展覧会で、初めて私は満たされた。

 そしてこの満足に花を添えるように、一五三七年作の、透明なヴェールを身に纏った全裸の女性が、右手に剣を立てて持ち、左手に天秤の秤を下げて、無表情に近い固い顔をこちらに向けながら、闇を背にして立っている、膝から上の像が、「正義の寓意(ユスティティア)」という題で登場した。

 それは、クラーナハの作り上げてきたクラーナハの独創美の正当性をクラーナハ自らが訴えた作品のように見えた。それにしても、この展示項目中には、ピカソの「クラーナハにならって」と断って作られたリトグラフの「ヴィーナスとキューピッド」や、マン・レイのフランシス・ピカピアのバレエの写真、マルセル・デュシャンのエッチング、さらには、川田喜久治が、クラーナハの絵画から収録した写真を基に作成した『ヌード・ミュージアム』という作品集などが、展示紹介されていたが、それがクラーナハの人気の高さ、影響力の大きさを伝えるものだったとしても、クラーナハ作品の展覧会の、余計な気遣いに疲れを増すことになり、私には、主催者の凝っては思案のほかの細工にしか思われなかった。

 そして五つ目の部屋に移ると、「誘惑する絵――『女の力』というテーマ系」となった。

 ここの「誘惑」とは、男に悲劇を齎す、女が男に発する魔の力を言うようだ。そのことを絵画化した「不釣り合いなカップル」、「サムソンとデリラ」「ロトとその娘たち」「ヘラクレスとオンファレ」といった作品が、どれも一人の男性が、一人または複数の女性の働きかけを受けている絵に仕上げられている。クラーナハが、こういう世界をドラマティカルに笑いの内に描いたことがわかるが、ここで私を引き付けたのは、部屋の終わりの、三点の女性半身像だった。

 一点目は、「女性の肖像」とあり、言ってみれば、男に対する女性の最も望ましい姿を描いたのであろう。上着の黒、胸元の赤のコントラストは、殆ど歌舞伎的色彩の妙で、それに応じた頭の、帽子の赤を覆う大きな羽根飾りの白い華やぎが、見据える眼差しと唇の端に笑まいのほの見える顔に、見事、女の見栄を作っている。

 二点目は、「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」で、聖ヨハネの生首の乗った大きな皿を持ったサロメの、あどけなくさえ見える小首を傾げて口に笑みを伴う顔が、聖ヨハネとのコントラストを劇的に見せており、最後は、「ホロフェルネスの首を持つユディト」という三点中の最高傑作だった。

 庇の広い臙脂色の帽子を被ったユディトが、切り落とされたホロフェルネスの首の置かれたテーブルに向かって座し、右手には首を刎ねた剣を首の横に立てて持ち、左手は、置かれた首の髪に乗せられているが、その、首に手を遣る、ユディトの無表情と言ってよい顔立ちの鋭さが、見るこちらに深い魅力を伝えていた。ユディトの長い女のちりちり髪が、両耳から肩へと、耳元から一筋脚先へと垂れている面差しが、こちらに寂響を送ってよこした。漸く作品鑑賞が、私の心を満たしてくれて、ほっとする。

 扠、こうして辿って来た最後の部屋が、「宗教改革の『顔』たち―――ルターを超えて」になり、これが締め括りの案内になっていた。

 そこには、ルターの肖像画一点と、彼が、聖職者としての婚姻は禁じられていたにも拘わらず、その制度に異を唱えて、修道女カタリナ・フォン・ボラと結婚し、それを公認させるべく、クラーナハに依頼した、ルター夫婦それぞれの肖像画二点とがあり、社会の教科書等で馴染みのルターの顔の隣に、その細君カタリナの顔を見ると、ルターに比べてそのカタリナの優しさが目と口唇に滲み出ていて、ルター夫婦との新しい気持ちのよい出会いとなった。

 そのあと、クラーナハが子と共筆した「子どもたちを祝福するキリスト」の、大勢の母子に囲まれ、赤児を抱くキリストを描いた、八O×一二〇センチはあろう作品が面白く、それが、デューラーの哲学的傑作として評判の高い版画、「メランコリー」を間に挟んで、同じく「メランコリー」と題したクラーナハの作品に連なり、この五〇×七〇センチ位の「メランコリー」が、本展におけるクラーナハの最後の作品となった。

 それにしても、デューラーの「メランコリー」の天使の羽をつけた女性は、座した膝に肘を立て暗鬱の顔を伏せて、膝上の紙に、手にしたコンパスで何かを書くかに見え、傍らの箱に掛けたエンゼルも物思いに暮れて沈んでいるように見える。窓外遥かに巨大な星が光芒を放ち、その脇に「MELENCOLIA」の文字が見える。

 それに対し、クラーナハの女性は、デューラーと同じように画面右側に座し、背には生えた羽の端が見えるが、彼女は膝の上に板を乗せ、手にしたナイフでその板を削いでいる。その左に広がる床の上には、エンゼルならぬ羽のない男の幼児が、全て一糸纏わぬ裸で、数えれば何と十五人、横笛を吹く子と、大太鼓を叩く子との二人を右手の一隅に置いて、残りの十三人は、あるいは寝転がり、あるいは踊るように跳びはね回って、すぐ前にあった、祝福してくれるキリストの間近から、解き放たれたように気儘な景を作り、その画面上部の雲の流れに取り巻かれた闇の世界には、魔女か悪魔か蠢き、怪獣・怪鳥が舞っていて、その雲の流れを括る起点には、大きな老翁の頭が描かれて、その口からは「MELENCOLIA」の文字が出されていた。

 これを見れば、明らかにクラーナハが、デューラーの閉じられた鬱の世界から、神への祈りも超えて、自らを解き放とうとする意志が、無謀にも夢見られている事が分かる。

 それにしても、私の魅せられるクラーナハの面白さを、堪能出来るほど作品には出会えなかったが、彼が、先達デューラーをいつも意識しながら生き、そのことを通じて、クラーナハ自身の絵描きとしてのスタイル、姿勢を作って行ったことは、伺い知ることができた。それを、この際収穫として、この展覧会場を後にすることにしよう、そう思って自分を救おうと思うことにする。

 私は、座して気持ちを平常に落ち着かせたくなってきている。

 

(二〇一六、一二、五)

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