和田英作という画家は、私の頭の中では、自己の主張や顕示の烈しさを全く感じさせない、品行方正、温厚篤実な優等生のサンプルのような画家としてイメージされている。お陰で、近代美術史上の優等生和田英作の名のみ諾い、彼の作品への詮索の眼差しがとんと失せ、僅かに「渡頭のタ暮」一点だけによって、彼の記憶が明らかになっているといった体たらくである。
その「渡頭の夕暮」は、和田が、創設されたばかりの東京美術学校西洋画科の四年に編入後、一八九七(明治三〇)年、卒業制作のために描き上げた、一三〇×二〇〇センチ程の大作だが、豊かな河の水が夕焼けに染まる渡し場に、日がな農作業に過ごした一家が、渡し舟が戻ってくるのを見遣りながら待ち佇む光景を描いたものである。
水と空とが、夕焼け色に染められた風景と、河沖を見て鍬を突いて立つ祖父、屈んで腰を据え煙管を構えた父、赤児を背にした母、その母に何か語りかける籠を背負った兄と川縁近く沖を向いて立つ弟の、全て野良着の着物姿の家族六人の立ち居の具合が、何とも詩的で、作品の情調を際立たせている。
明治以後の近代の洋画で、明治の前近代的な農村の生活を描いた油絵の傑作として、この和田英作の作品は、私に銘記されている作品なのだが、その『和田英作展』が、「日本近代洋画の巨匠」の肩書きの下、刈谷市美術館で催されるというのだ。
彼の展覧会が、何故刈谷の美術館で催されるのか、奇妙だったが、それは、和田英作が、戦争中、東京から疎開して知立で過ごしたことに依るらしい。としたら、己が無知には呆れるが、こんなに嬉しいことはない。
和田は、一九四五(昭和二〇)年三月、東京で強制疎開を命ぜられ、細君の奔走あって、その四月には知立へと転居し、以後、戦後の五年間を含めて一九五一年まで、知立を居宅として活動したらしいのだ。こういう応対を知ると、改めて、日本の中央、東京に捉われない、中央志向から解かれた和田英作という画家の生きざまに興味が湧く。
こうして、私は、五月二五日、朝八時に家を出、刈谷市美術館に出掛けた。
名古屋駅からJRで刈谷に行き、駅前のサイゼリアという店で、軽いパン食を取ってから、歩行者一人見かけぬ町中を刈谷市美術館まで歩く。入館すれば館内も閑散。その二階から一階へと、静かに展示室を辿って「和田英作展」を観ることになった。
二階の最初の展示室には、「洋画家として歩み始める」とあり、創設された東京美術学校を卒業し、文部省より、フランスへの三年間の留学を命じられて渡仏し、美術学習にチャレンジした時期の、二十代の作品が並んでいた。
この部屋の中央で、久しぶりに「渡頭の夕暮」に再会したが、特に感慨は起きなかった。寧ろ、「渡頭の夕暮」と同じ明治三十年に描かれた、その四分の一程のサイズの、五十センチ位の作品五点が、初夏の新鮮な魅力を私に齎した。
中でも、横長の「少女新聞を読む」は、畳の部屋に、浴衣姿の少女が、箱枕をして横たわり新聞を見ている。仕切りのない和室の開放感が、見事涼感を描き出していて心地よく、同じく横長の、秋草茂る庭先の井戸端で、今し、少女が水を汲み上げているところを描いた「秋草」と、広い農地の中の道と、そこに建つ藁葺きの物置小屋、その前を通り過ぎる百姓を描いた「快晴」の二点は、日差しと日陰の描写のコントラストが、印象派の技法の消化をよく示していて、和田が、空間の空気の表現、それも心情的に表現することに優れていることを、良くこちらに伝えていた。
しかし、留学中の作品は三点しかなかった。内二点は、描写の切れ味のよい女性の肖像画で、一点は「マダム・シッテル像」とあり、今一点は、和服姿に身を整えた日本の女性を描いて「思郷」とあって、ここでも、「思郷」の題名に、和田の心情的拘りが巧みに示されていたが、一番引かれたのは、ミレーの「落穂拾い」の正確で鮮明な模写だった。
模写された色彩のトーンは、まさしく原画そのままだったが、落ち穂を拾う三人の女性の、陰となった顔立ち部分が、模写作品が原画より縮小されていることもあってか、面影に陰哀のセンチメントを漠と漂わせていたのには打たれた。殆ど身が締まった。
次の展示室は「白馬会・文展で活動」と題され、和田の三十代、四十代の作品が並んだ。
そこには、多数の下絵があったが、中では、水彩描きの富士山の下絵が六点を数え、キャンバスに描いた油彩の「富士山」四点と併せて、十点の富士山作品があったのには驚いた。
和田が、富士山を日本を象徴する名山として捉える見方を、そのまま自らに受容して、名山の姿の名山振りを表現しようとする姿勢があからさまで、和田の、日本人一般の観点を自らに課す素直な態度に、画家としての優等生的な勇気を感じた。
またここには、和田の日本の古典世界に対する関心を示す、二点の油彩画「くものおこない(衣通姫)」と「あけちかし」も登場していた。後者は、その画面から、古典の題材としては定番の、紫式部が、石山寺で夜明けに『源氏物語』を執筆する姿を描いたものだと想定できた。
また「福沢諭吉先生肖像」等三点の老紳士の肖像画もあり、和田が、肖像画を発注するに適した画家であると、おそらく世に高く評価されていたことを知らせてもいた。
そして、部屋の三つ目は、「洋画会の指導者へ」となり、この部屋では先ず、一、四メートル程の、フィレンツェはサンマルコ修道院にある、フラ・アンジェリコの「受胎告知」の模写絵が壁面を占めていた。原画のフレスコ画の絵の具の色彩感を、油絵で写しとっている和田の、フラ・アンジェリコを懐かしく忍ばせる模写力に脱帽である。それは、一九二一(大正一〇)年、日仏交換展開催の使節として渡欧した際に描いたものらしい。
ここで「指導者へ」とある期間は、和田の四十代から五十代にかけての二十年間になるようだが、この間、四九歳の一九二三年には、仏政府からラ・レジオン・ドヌール勲章とコマンドール・エトアル・アル勲章を受け、一九二八(昭和三)年、五四歳の時には勲三等瑞宝章を受章し、一九三一(昭和七)年には、東京美術学校校長に就任していたと知らされる。そして、六二歳の一九三六(昭和一一)年には、高等官一等に昇叙して美校校長を辞し、夏には従三位に叙せられて、美校名誉教授の称号を受けたと紹介されていた。和田の優等生振りも、ここまで来れば、恐れ入りましたと降参せざるを得ない。
そして、このコーナーでは、まず古典世界の作品三点が目立ち、その一点「天平の女」は、柳の大樹を背にした、頬膨よかな天平の若い女性の上半身を描いていたが、背景が、すぐ猿沢池と興福寺五重の塔だと想像できる、まさに優等生らしい遊びっ振りだったが、天平美人の三点の下絵と一緒に展示されていた、縦一、五メートル大の作品「野遊」は、奥床しく見甲斐があり、気に入った。
藤の花咲く樹下を、二人、一人と左に向いて天平の美女三人が歩む様子は、緑陰の香りが嗅げそうで、前の美女の左手には白い横笛があり、後ろの美女の手には円形の胴に長い棹の付いた弦楽器が持たれていて、衣裳の色彩美と共に、作品に深い時空の叙情美を作っていて、名作と呼ぶに
充分な作品の風情だった。
また、ここでは、花瓶に色とりどりの薔薇がこんもりと活けられた静物画が何点か、初めて登場していたのも、和田作品の座りの良さを示していて快かった。
そして最後は、一階へ降りて、「東京を離れ、愛知・知立、そして静岡・清水へ」の展示となった。清水の三保に移ったのは、一九五一年喜寿の年らしく、以後清水で暮らし、一九五九(昭和三四)年正月の三日に、八四歳の生涯を終えたようだ(没後、和田は正三位に叙され、勲一等瑞宝章を授与されている)。(注1)
このコーナーには、老人の肖像画が二点あり、二点共この美術館所蔵とあるのだから、知立の地の名士の肖像であろうか。何よりも目立ったのは風景画の多さで、中でも、和田の最後を飾るかのごとく、知立の風景を描いた油彩画が十点、展示されていた(因みに清水の風景画は四点だった)が、その知立の風景画は、全てが、田圃と河水と街道の木立とで成り立った視野の広い光景で、そのどこにも建造物や人影は描かれていなかった。間違いなく、広やかなその風景の中で絵筆を向け、知立の自然と共生した和田の、悠揚たる息遣いが作品を造っていた。しかもその風景画は全て、この刈谷市美術館所蔵によるもので、和田の本展を、ここで催したことの自負を陰ながら示してもいた。
この風景画が、優等生画家和田の、訪れた私に対する最後の贈り物になったことは、私には気持ち良く、親しく嬉しいことになった。
私は美味しいコーヒーをゆっくり飲みたくなる。
※
新宿の中村屋のビルの三階に、「中村屋サロン美術館」があることを、日曜美術館によって初めて知った。
「新宿中村屋」と言えば、一九〇一(明治三四)年、日本で最初に創業されたパン屋で、その創業者が相馬愛蔵であること、その妻、相馬黒光は女流文人として、店の奥に、若い芸術家の活動を援助するサロンを造り、その中から、画家中村彝や彫刻家荻原守衛らの、大正時代を代表する新鋭アーティストたちを、世に送り出したことくらいは知っていたが、私は、これまで、新宿へ出ても、紀伊國屋の方へ行くばかりで、中村屋の方ヘパンを求めて足を運んだことは一度もなかった。
その中村屋のビルと、ビルに設けられた(平成十四年のことらしい)美術館とを、この際知っておこうと、訪ねることにした。折しも、日曜美術館が紹介した、この中村屋の美術館での企画展は、「生誕150年記念」と銘打った『中村不折の魅力』展だった。
中村不折といえば、私には、森鴎外の遺言のお陰で、忘れ得ない存在になっていた。鴎外は、死を控えたその最後の言葉の中で、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレトモ生死別ルゝ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ許ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶封ニ取リヤメヲ請フ」と言い、「中村不折」の名が残されていたからだ。
ために、私は鴎外の墓を三鷹の禅林寺に訪ね、墓石に彫られた「森林太郎墓」の、書家中村不折の隷書体の五文字に合掌することになった(注2)。もう遠い昔のことだ。しかし、画家の不折については、彼が、島崎藤村の『若菜集』以下、『一葉集』『落梅集』の三つの詩集の表紙絵を描いた画家だということは、その複製本で知っていたし、夏目漱石や正岡子規も、不折と係わりがあったことは、二人の全集の、それぞれの書簡集中に収録された、不折宛の手紙によって分かり、漱石が『吾輩は猫である』の挿絵を不折に依頼したこと、子規が雑誌『ホトトギス』の表紙絵の作画を頼んだりしたことなどを知っていたが、不折の洋画家としての絵画作品には、これまで全く出会ったことがなかたのである。その、不折の絵に会えることになったのだから、これを逃すことはできない。
入館すると、まず、入口早々、横長の板に中村屋の屋号を木彫にした看板が目に入ったが、彫られたその屋号は、不折の力ある楷書によっており、開業当初よりの、彼の中村屋との縁の深さを語っていた。
そして、この看板の後、展示されていた画家不折の油彩画四点が、その強烈なパンチ力によって、私を引き付けノックアウトしたのである。
四点は、どれも、一メートル近い丈の、試作的な裸体像作品だった。「男子正面立像」は、頭髪の禿げた六十近い男性の、膝より上の、陰茎を垂らした、頑健な体躯が描かれており、「老人坐像」は、肘を張って横向きに坐った太い胴体の、恐らく前作と同一モデルの全裸の老人が、低い視点から仰角的に描かれており、「裸婦習作」は、すっくと立った姿で描かれており、それに、同じような全身像で描かれた「男子立像」の四点だったのだが、どれも、茶褐色系の多様な色彩が、筆刷けの力や勢いによる闊達な変化と、陰影の濃淡とによって、どっしりとした重量感を持った活力を生み出していたのである。
しかも、その力動感に酔った目に続いて、六○×四五センチ大の画用紙に描かれた、どれも、「裸体習作」と記された木炭画六点が登場したが、これによって、中村不折といっう、洋画家としての揺るぎのなさを、認識させられることになったのである。
この六点の「裸体習作」の木炭画における男女の裸体の方は、油彩と違い、木炭により黒一色の筆致で細密に描写されているだけ、四点の油彩画より、純一な清涼感が造出されているように見え、とりわけ、女性の裸体は、私のイ口好みのせいであろうが、描き振りが一入見事に見え、中、でも、腰をこちらに捻るように向けて膝を畳み、右腕を挙げて顔を隠すように横座りになった裸婦像は、その女性の年延えの皮膚の質感や体温まで感じることができ、その描写に、実際に感涙を催した。
しかし、この十点の男女の裸体作品の見事さから、共通して看取できることは、作者の、描く対象に対する目の大人っぽさである。その大人っぱさが、習作画に過ぎぬ裸体画に貫禄を齎しているのだ。こうした貫禄のある裸体習作画に脱帽したのは、安井曾太郎展で見た曾太郎の裸体習作画に次いで、二人目のことで嬉しくなる。
思えば、こういう裸体をモデルにしての人体描写作品は、一般に、洋画家を志す若者が洋画の描写力を身につけるための基礎学習として描き残すものだが、一体、不折がこの絵を描いたのは何歳だったのか。
ここに並べられた六点の「裸体習作」の作成年次は「一九〇二(明治三五)年」となっており、油彩画の裸体画四点は、どれも「一九〇三~四(明治三六~七)年」となっていた。 私は慌てて、チラシに記されていた略年譜を見る。すると、不折が渡仏して、ラファエル・コランに師事し、アカデミー・ジュリアンで学んだ時期に当たることが分かり、一八六六(慶応二)年生まれの不折ならば、三十六、七歳になっていた事になり、驚く。
私は、十点の作品が、二十代の若者の、基礎学習の筆ではないことを知り、「洋画家中村不折」というに足る力量を、これを通して得心できた。
この後、二十三、四歳頃に描かれた鉛筆描きと水彩描きとの写生画が、七点程並んだが、どれも三、四〇センチ程の小さな作品で、全部が、身近な風景を極く真面目に写実的に描いたもので、こちらの方が、不折の基礎学習期の作品なのだということが分かった。
私には、不折が、画塾こそあれ、美術学校なぞまだない時に絵描きを志した若者として、挿絵や表紙絵に取り組み、絵描き稼業としての暮らしを立てることができるようになって、画家の理想である渡欧に踏み切ったこと、つまり、若く渡欧できた原田直二郎などとは、洋画の学習手順が多く逆の生き方を余儀なくされたところに、不折の独自性があったことを納得する。
この後、日本画の軸物が五、六点と書の軸が三点掲示されていたが、私にはどちらも日本的伝統的な領域の作品で興味を引かず、帰国後の洋画家としての作品を見たいと思ったが、石造りの床の上に座した「裸婦座像」という、若さを失った女性が右腕を立て、左腕を上げかけた落ち着かぬ姿勢で描かれている作品があり、中年女性の肉体の不思議な呼吸を感じさせて面白かった他には、洋画家不折の力を感じる作品には会えなかった。
とりわけ、昭和になって描かれた、「懸泉」「湖畔」「海岸の裸婦」「眺望」と題した晴れた風景の日差しの中に佇む裸婦を描いた四点の作品は、どの裸婦も、その白すぎる肌とポーズが、風景の中で生きておらず、色合い全体に深みを欠く、絵の上手な中学生が描いたような感じがした。描かれたのは、一九四〇年とあったから、不折七十五歳の作品ということになるが、不折に老人呆けの幼児化が起こったのかと思ってしまう。
こうした落胆の中で、同じ晩年に描かれた「椅器の誠(注3)」(一五〇×一九〇センチ位)と題した大作が、油彩画の最後を飾っていた。それは中国の古典的史画だったが、不折は、洋の東西を問わず、古典的歴史画を多数描いたようだ。この「獅器の誠」は、屋外の緑を背にした堂内の床上で、尋ねている三人の男性を前に、師匠と目される髭の大人が、後ろに佇む子供を庇い応対している場所が描かれており、一九四一年の作と記されていたが、老い呆けは感じなかった。ただ、着彩に、濃淡の明晰クリアーな快適さはなく、裸体像に見られたような写実の力強さも窺えなかったのが、口惜しく残念で、私は、挿絵画家だった不折の力ある歴史画に会いたくなる。
私は、悔しさを胸に、最後のコーナーに移った。そこには、前に記した藤村、漱石、子規に係わる、詩集の装丁や、作品の挿絵や、雑誌の表紙絵が、並んでいた。そこに展示された小さな作品、特に『ホトトギス』の表紙絵などの作画センスは優れていたが、それを見るにつけ、寂しさが闇の穴のように深まるばかりだった。
私は、中村屋のカフェを訪ねて、舌をカレー味で覆いたくなっていた。
(二〇一六、七、五)
注1
因みに文化勲章は、一九四三(昭和一八)年、六九歳の時に授与されていた。
注2
鴎外の墓のある禅林寺には、太宰治の墓もあったが、その墓石には「太宰治」の三字のみが彫られ、こちらの文字は井伏鱒二の書いたものだった。
注3
「美しい器の戒め」とは、どこに出てくる話なのか、私には分からない。御教授を請う。