川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

明治近代洋画のアヴァン・ギャルドたち(二)ー原田直次郎+五姓田義松ー

承前

 

 こうして、原田直次郎は、第三章「奮闘」のエリアに入ったが、このエリアが、直次郎が一八八七年に帰国してからの、画家としての直次郎の活躍振りを評価できるよう仕立てられていることは、言うを待つまい。

 従って、ここには五〇点に及ぶ出展が見られたが、その内、直次郎の油彩画作品が一六点、石版か木版の版画が同じく一七点あった。それらの作品が、直次郎にとっての画家としての仕事が、どう結実したのかを、強く訴えてきた。

 まず、何点もの油彩の肖像画が、並べられていた。

 その始めには、有名な山本芳翠の「西洋婦人像」をそっくりに模写した作品があって、優れた作品の模写は、絵画の学習に必須の作業であることを示しているのだと推測出来た。それは、帰国翌々年早々、直次郎は鐘美館という渼術学校を興し、学生の指導に当たったからである。 

 その後、どれもほぼ丈一メートル大の、「島津久光像」「三條実美像」「毛利敬親肖像」の肖像画が並び、それに三×二メートル位の大作「騎龍観音」が続いて、展示室を締めた。

 肖像画はどれもその地位と立場を持った威風を示して描かれ、観音は、暗雲を背に、風の中に牙を剥いて猛る龍の頸部に、金冠を戴き白衣を弾かせて立ち、毅然とした姿で優雅に描かれていた。観音像は、名札の記載を見れば、護国寺の所蔵で、重要文化財の指定を受けていることが分かり、洋画の日本近代の名品としての公的認定に、初見の驚きと併せて得心がいった。

 そして、どれも三〇×二五センチ位の、小さな四点の田舎の風景画が登場したが、それはドイツの「風景」にはない、在り来たりの日本的な小風景で、魅力を欠いていた。

 展示は、その後一変して、表紙や挿絵の、木版・石版画作品群になった。鴎外の翻訳詩集『於母影』の表紙絵に始まって、雑誌『国民之友』『新著百種』『めさまし草』の表紙絵や、誌中の作品に描かれた挿絵が何点も続いたが、その絵の中には、「開天厳戸図」「大江戸鬼狩道行之図」といった神話や民話を扱った作品があり、先の観音像と併せて、時代物が直次郎の画素材の一つとなっていたことを語っていた。

 そして、この章の最後を飾っていたのは、「貴頸御肖像」と題した軍服正装の明治天皇の騎馬歩行の姿を描いた木版画だった。それが許されるような原田の画家としての社会的評価の高さを、それは示しているようだった。こうして、最終章「継承」を迎える。

 しかし、ここには最早直次郎の作品は少なく、大半が、鐘美館で学んだ伊藤快彦、小林萬吉、三宅克巳、大下藤次郎、和田英作といった塾生たちの作品で、その中には、師直次郎の「靴屋の親爺」や「老人」の模写をした作品が何点もあった。

 これらの弟子たちの作品には、見甲斐のある作品も結構あったが、そんな中で、最後を飾る直次郎の作品には、肖像画の、大工か左官の職人らしい、艶と皺の美しい、頭髪の大半を失って禿げた老顔を描いた「職人の図」は、小品ながら見事な輝きを持っており、見栄えのしなかった風景画の中では、木の格子垣の足下に雑草のように黄菊の咲く「庭」の小景作品に親しみが持て、その風景画群から転じて、八〇センチ大の歴史画「素戔嗚尊八岐大蛇退治画稿」の、素戔嗚尊が剣を構え、黒髪に覆われた怒りの顔を大蛇に向け、蛇身に足を踏まえて画面中央に立つ絵柄だったが、作品のスケール、迫力はあっても、作品が未完であるせいなのか、これは些か品格を欠いていた。

 そして、この無念を埋めるかのように、三点の油彩画が展覧会の最後を締めていた。一点は八〇X一一〇センチ位の大作「風景」だったが、この風景は、まるで直次郎自身の心身そのものの表徴に見えた。流れる暗雲の下、広がる海浜の遠景の中央に、白い帆が小さく一枚、風に吹かれて立っているのだ。その制作が一八九八年とあるところからすれば、直次郎の遺作に当たるのではと思われるが、今一点は、普段着の和服姿の、七十過ぎの老いっぷり鮮やかな、それなりの立場の貫禄を示す知的な皺が豊かな、「安藤信光像」という肖像画だった。その老顔の穏やかな美しさは、死を控えた直次郎の自画像だと錯覚したくなる。 

 そして、何よりの一点は、八〇X六〇センチ位の、闇をバックに、陶器の花瓶に一盛りに活けられた、六花の牡丹と蕾の一花を描いた「花」と題した作品だった。直次郎の_静物画は、それが最初で最後の一点になっていたのである。花は純白ではなく、白に赤みを帯び、花瓶に活けて日数が経っていることを窺わせる、それが作品の重量を造成していて、私に、今日の原田直次郎展を締め括って見せていた。

 「花」、それは儚く散る存在の、命の貫禄を訴えていたのである。

 そして、その括りっぷりに、私はすっかり寂しくなっていた。

 

追記 これは図録を求め、そこに記載されていた直次郎の年譜を見て知ったことだが、直次郎は、一八八四年に渡欧する以前の、八一年十八歳の八月に大久保さだと結婚をしており、八三年七月には長女の寿を設けていた。『独逸日記』に記された鴎外の見解通りにはいかないことになる。

 

 翌二四日、私たちは午前中、六本木の森美術館で『フェルメールとレンブラント』展を観た後、横浜の桜木町に向かった。着けば一時を過ぎる。駅の観光案内で神奈川県立歴史博物館への道を尋ね、貰った観光地図を頼りに、十分足らずで目的地に着く。

 着いた博物館前の饂飩屋で、まず天麩羅蕎麦で腹拵えをし、それから博物館に入館した。

 わざわざここを訪ねたのは、日曜美術館で、五姓田義松(ごせだよしまつ)の「老母図」という作品が、本博物館で展示中であることが紹介され、その迫力に心奪われ、会わずにおれなくなったからである。

 五姓田という姓の特異さもあって、明治初期のこの洋画家の存在は、記憶に残っていたのだが、その作品に接する機会は滅多になかった。

 私における五姓田義松作品の記憶は、先述の原田直次郎の場合に、その記憶の基になった二つの展覧会と、偶然、一致していた。『近代日本美術巨匠100選』展では、一八九〇(明治二三)年作の「ナイアガラ瀑布」という、幅広い瀑布を激流の音高く描いて見せた油彩画の大作に会い、『近代日本美術の歩み展』では、一八八三(明治一六)年作の「操芝居」という、パリ辺りの海外の公園の、操り芝居を見せる舞台の前に、子供たちを中心に、着飾った親たちが集まっている情景を描いた、小さな油彩画に出会っていた。その二点のうちでは、私は、小品だが、「操芝居」の、日本では見られない西欧の都市文化の表情を描いた、日本人の留学青年らしい眼差しに、好感共感を覚えていた。

 しかし、五姓田義松の場合は、それだけではなく、今一つ、その名を印象づけた『日本近代洋画への道』という展覧会があった。私はそれを、二〇〇四年一〇月、東京の目黒区美術館で観ていたのだが、展覧会は、「高橋由一から藤島武二まで」「山岡コレクションを中心に」の副題を持ち、つまり、ヤンマーディゼルの創始者・山岡孫吉が蒐集した、日本の近代洋画の創始以来の作品の見事なコレクションを、て初めて公開したものだったのである。

 そこに、五姓田義松の作品が何点かあって、中の、一メートルは越した大作「人形の着物」と題した、椅子に掛けて人形の服を針で縫っている老婆と、その様子を、下着姿の人形を抱いて脇に立って見守っている女児とのいる案内の景をつぶさに描いた一点は、「操芝居」に通じる義松らしい写実的作品として、記憶に残った。

 それに、何よりも、江戸末期の司馬江漢に始まって明治の終わりに至るまでの、洋画美術の技術技法を通じての日本の近代絵画の成長振りを、出展の作家六八名、一七〇展を越す作品数で展観したことは、体験上、私の知らないことだった。しかも、その作品群は、私の知っている作品が皆無と言ってよかった。つまり、人を呼べる作品抜きでの、稼げない展覧会だったことも、私の記憶に深い意義を持った。

 だがその中に、何故か原田直次郎の作品は一点もなかった。

 ともあれ、そういう温和な西欧的イメージで受け止められていた五姓田義松だったこともあって、今度の日曜美術館で紹介されていた、死の直前の母を描いた「老母図」は、衝撃的な印象を私に齎し、今日の予定を決定的にしたのである。

 さて、館内に、客の姿はなかった。五姓田義松の作品展示が行われている場所を、切符売り場で訪ねると、職員は三階へ上って一巡してから、二階へ下りてみるようにとういことで、案内通り辿って、二階へ行くと、そのガラスケーースの一つに、そこに置かれた展示博物と一緒になった、小さな額に入った五姓田義松の作品が立て掛けられていた、室内に掲示壁面がなかったので、壁に掛かった額を介して作品を見ることが全くない、奇妙な絵画鑑賞になって。

 しかも、五姓田義松の「作品展」であることは、どこにも明示してはなく、一般の博物展示品を収めた展示ガラスのケースと、同じサイズ形式のガラスケースに、展示博物も同居しての絵画展示だったのだ。

 つまり、絵画鑑賞への配慮を欠いた環境で絵画を観るという、雑駁な気配極まる独特な鑑賞になった。

 あゝ、このケースから五姓田義松の絵がある、と気付いて、最初にガラス越しに出会ったのは、A5判位の大きさに、茶系統の一色で、水彩で描かれた自画像一点と、一〇センチから一五センチほどの、自分の表情あれこれを鉛筆でスケッチした「六面相」と題した小さな六作品とだった。

 六面相は、怒り、凝視、威嚇、驚き、落胆、笑いの六面が、その眼と口の表情の際立ちを通して描かれており、その顔作品六点は、一メートル四方にも満たない白紙一枚に貼付されていた。一方、自画像の方は、作為を何処にも持たない放心に近い無表情で描かれ、額縁に納められていた。描かれたのは、「六面相」の方は一八七三(明治六)年頃とあり、「自画像」の方は一八七五(明治八)年頃とあり、義松十八歳と二十歳頃の作品ということになる。

 そこに、紛れもなく自己と真向から対峙して遊ぶ義松の姿勢が見え、それが、身につけた写実技術の確かさによって、見事な美術作品にまでなっていることが感知できた。

 次は、その左に、三○×四〇センチほどの、「五姓田一家之図」という紙に描いた油彩画に出会う。田舎の十畳はあろう居間の、長火鉢を囲んで座した六人の家族が描かれていた。明治五年に描かれたその家族は誰もが着物姿である。そこには、絵の具という外来品以外は、何一つ新時代の物は描かれていない。

 そして、次には翌六年に、はがき大の紙に水彩で描かれた、鼻下と顎下の髭豊かな、どてら姿の父親像「五姓田芳柳像」が置かれ、さらにその左のガラス棚の高い位置に、今日の目的である作品、明治八年に描かれた「老母図」の油彩画が置かれていた。テレビの映像イメージからすれば随分小さい、三〇×二五センチ位の作品だったが、作品はその小ささを感じさせない力を持っていた。

 仰臥した老母の寝間着も布団も、枕もその後ろの壁も、全て黒を中心にした暗い色彩で埋められ、深い暗鬱の中に、老母は、その顔と手が骨と皮ばかりに痩せ枯れて描かれていた。とりわけその顔は、眼窩の窪みの底に薄く描かれた眸子が、への字に締められた口と併せて、逃げられぬ死への怨念を息子義松に投げかけているように見えた。その眼差しを逃れず受け止めて描く、画家魂の発揮に徹しようとする義松の根性が、尊くいじらしい。

 一つのガラスケースの中、これだけの作品展示が終わると、同一の、続きに並んだ次のケースに、また絵画作品が四点並べられていた。やはりどれも、二、三〇センチまでの横長の小さな作品ばかりで、それぞれ何の特徴もない小さな額に治まって置かれていた。

 ケースの中の前の二点は、スケッチ帖の見開き二ページに描かれた水彩画の風景画で、明治五年の作だった。一つは「横浜西大田ノ村落」とあり、今一つは「横浜根岸相沢村」とあったが、どちらも筆遣いが大雑把に描かれている近景部分に対して、遠景部分は、その山間とそれを飾る木立の佇まいが、実に細やかな筆遣いで、微妙な色彩の変化と共に描かれ、それをうっすら覆う雲の色を刷いた空と併せて、広やかで柔らかな田舎の自然の豊かさが、見事に描かれていた。こんな優れた写実の風景画に、これまで出会いったことがないような感じさえした。

 しかも、用紙がスケッチノートであるだけに、そこには、紙を無駄にしないで作品を制作する、若き日の義松のつつましい暮らしの一端が覗いている。

 それに対して今二点は、自分の住空間を対象にした風景画だったが、一点は明治五年に成った「台所」の絵で、一点は十年に成った「雨の日の家」と題した絵であった。そのどちらからも感取されることは、義松の写そうとしている実が、使い古された己が家の貧というものだということだった。とりわけ「雨の日の家」の、板葺き屋根の平屋の板戸が開かれた炊事場の景、その糸をなして雨の降りしきる軒端の描写は、嗅覚をも刺激する貧しい暮らしの湿気の深さを、こちらに伝えていた。

 どうやら、始めのガラスケースにあったのは、五姓田義松という画家の、到来した新時代からはまるで縁遠い環境としての家族の、画家自らにおける表現というものであり、続くケースの作品は、それを裏付ける自然環境と貧しい住環境の表現だった。

 それは、昨日見た原田直次郎の恵まれた家庭環境・経済環境とは、雲泥の差があることを語っていた。

 それでも、ケースの最後には、本展示中では五〇×四〇センチ位で一番大きな、それも紙ではなくキャンバスに描かれた油彩の作品一点が置かれていた。それは、明治十五年に描かれた「井田磐楠像」で、レストランにあるような子供用の椅子に掛けた、白っぽい子供服に白の靴下、黒い靴のお洒落姿の男の子の肖像だった。男の子の手には赤い焼き物の人形が握られている。

 この年、二十七歳の義松は、パリで、漸く洋画というに足る写実絵画の世界に勇躍できた、これは、その例証だった。

 そして、展示は、画家としての五姓田義松の成立を伝えたここで、終わっていた。

 私は、もう一度、最初に掛けてあった義松の「自画像」の前へ戻る。

 

(二〇一六、四、二)

 

追記 この博物館の充実振りに接すると、名古屋の博物館の貧弱な内容が嘆かわしくなった。

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