川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

明治近代洋画のアヴァン・ギャルドたち
    ー原田直次郎+五姓田義松ー

 原田直次郎。その名に、私はもう長い間緊縛されてきた。

 私がその名を初めて知ったのは、森鴎外が留学中に書き残した「独逸日記」によってである。それによれば、原田は、絵画の研鑽を目指して独逸ミュンヘンに留学し、学友として、鴎外と親交を深めたことが読み取れる。

 その若き鴎外が、留学中の体験をもとに独逸三部作と呼ばれる作品を残したわけだが、その処女作「舞姫」が、鴎外自身の恋の体験に基づいて成り立ったことは、今日では周知のことになっており、続く二作目の「うたかたの記」の主人公、日本人の青年画家巨勢が、原田直次郎をモデルにしたものだと解釈されているのである。

 その原田直次郎の「独逸日記」への登場は、一八八六(明治一九)年三月のことなのだが、滞独三年目を迎えていた原田は、その秋十一月にはミュンヘンを発ち、伊、仏を経由して、翌八七年七月に、日本に帰国している。

 当時日本では、まだ東京美術学校(現在の東京芸大)も開校されておらず、それが開校されたのは八九年、そこに西洋画科が設置されるのは、さらに七年後の一八九六(明治二九)年、日清戦争以後のことだ。

 つまり、原田が帰国した当時の日本は、近代洋画の啓蒙と普及の場が国家によって造られ、その活動が広く奨励される前の、洋画家の社会的基盤がまだ未熟な時代だったのである。

 そんな訳で、東京美術学校西洋画科の黒田清輝を中心にした洋画活動が活発化する以前の画家たちの仕事は、美術、史上、社会的に殆ど認められないで過ぎていた。 

 その事態を、鴎外は、原田直次郎が、一八九九(明治三二)年一二月二六日に三六歳で没した直後に書いた随筆「原田直次郎」の中で、次のように伝えている。

 黒田清輝、久米桂一郎兩君が佛蘭西から歸ってから(注1)、一派の批評家は新憲二派の目を立て、在來の油晝家を攻撃した。(中略)日本にはまだ油晝の成功はなかった。油晝でその局勢の稍や大いなるものは、唯だ原田どの胸中に萌芽して居たに過ぎぬと謂っても大過なかろう。彼批評家の攻撃は、實に此芽欒を枯らす霜雪であった。私は姑く此の性急な交代が、日本の洋風藝術の爲に利益であったか、不利益であつたかを問ふまい。私は只だ當時在来の油畫家の爲めに氣の毒でならなかったといふこと丈を話して置かう。

 當時の所謂奮派は皆久しく辛酸を嘗めて居たのに、世間が少し油畫に目を附けかった頃になるや否や、早くも交代者が来て、後から推し退けに掛かつたやうなものである。(中略)原田のやうに、いつも眼を高威に注いで、始終濫作に堕ちずに居たものは、實に悩むべきであった。其上此打撃は丁度原田の健康を失った時(注2)に来たのだ。

 お陰で、私など、これまで「萬派」の彼の作品に出会うことは殆どなく、記憶に残っている彼、原田直次郎の作品といえば、一九七四年に、愛知県美術館で催された『近代日本美術巨匠100選』展の中に選ばれていた、画用紙大の「老人」という、見下ろす視点で、老人の禿げた頭部を描いた油彩画と、その五年後の一九七九年に、東京都美術館で催された『近代日本美術の歩み展』の中にあった、直次郎一八八六(明治一九)年作の、白い作業衣に黒い前掛けを着し、髭まるけの面差し鋭い「靴屋の親爺」(六〇×四_0センチ大)の油彩画の二点だけである。

 記憶に残るこの二点は、どちらも着衣も年かさも薄汚れたものだったが、その薄汚れぶりが、日常の健全な飾らぬ暮らしを匂い立たせていて、そこに明治の画家原田直次郎の質実ぶりが滲み出ており、日本の近代洋画の初めを飾る傑作の一つとして印象されていた。

 その原田直次郎の展覧会が、埼玉県立美術館で開かれるというのだ。これを見逃せるわけがない。

 三月二十三日、私は妻と、埼玉県立美術館を北浦和に導ねた。

 入館し、購入したチケットを見ると、大きめのチケットの中央には、例の「靴屋の親爺」が印刷されており、その!上部には「原田」、下部に「直次郎展」の文字が、横書きゴチック体で印刷され、図の右側には「西洋畫は益、」、左側には「奨動すべし。」の文字が、こちらは縦書き明朝体で印刷されていた。そして、「すべし。」の左側、チケットの左端には、小文字で「百年ぶりの回顧展」の八文字が読めた。

 「百年ぶり」と言えば、一九九九年頃ということになるが、これは、鴎外の書き残した「原田の記念會」他に従えば、鴎外自身が、一八九九年一二月に没した直次郎の、死後十年を記念して鴎外自らが中心となって、直次郎の回顧展を企画し、一九〇九(明治四二)年一一月二八日に、「原田直次郎没後十周年記念遺作展」を一日だけ開催したことが証される。とすれば、今年は二〇一六年、百年は疾うに過ぎていることになる。

 遠く忘却の彼方に追いやられていた原田直次郎が、漸く私の手元にやってくることになった。

 展覧会は、どうやら章立てで展開するらしく、入室第一章は「誕生」となっていて、直次郎の画家として誕生するに至る紹介の章だと思われる。とすると、そこに、あまり彼の作品を期待することはできなくなり、私の期待感は、水をさされたように冷める。

 そんな中で、意外にも唯一点、直次郎が描いた、六〇X四〇センチ大の「高橋由一像」があって、その白髭顕著の高橋由一の老顔は、その皮膚の肌触りまで実感させられるほどの写実ぶりで、直次郎の描写力が半端でないことを語っており、眼を見張らせた。

 しかし、高橋由一と言えば、「鮭」で有名な、明治の洋画の先駆者に他ならぬが、その由一像を掲ているのは、直次郎が彼に関わっているからであろう。

 高橋由一は一八七三(明治六)年、画塾天絵学舎を創設しているが、直次郎は、二十歳になった一八八三(明治一六)年にこの画塾に入門したようだ。

 しかし、この「高橋由一像」が描かれたのは、一八九三(明治二六)年と記されていたのだから、一八六三(文久三)年生まれの直次郎なら、三十歳になっているはずで、天絵学舎に入門中に描かれたものではなく、その点では、章立ての意味を裏切った出展としか言いようがない。

 しかも、直次郎の天絵学舎での絵画学習は、一年にも満たなかったようで、八四年早々には、彼は渡独し、四月には、ミュンヘン美術アカデミーに入学しているのだから、「誕生」期の直次郎の作品など、まず期待できないことになってしまう。

 だから、このコーナーには、整った武士スタイルをしている直次郎の父吾一の写真これは、幕府の遣欧使節団一員として随行した時のもの――や、その使節団がスフィンクスを背に撮った写真や、明治七年、直次郎が父吾一、義母茂子と親子三人で撮った写真――三人とも洋服を纏い、茂子は既に日本髪を結っていない――や、明治一六年に撮られた、二十三歳になる兄豊吉の蝶ネクタイの肖像写真|ーや、襟巻きで首を巻いた和服姿の椅子に掛けた、直次郎の明治十五年十九歳の時に撮った写真といった映像記録類、又当時の小学校の『小学画学書』とか、天絵学舎で作成された器物や樹木等の『習画帖』等の書籍類が、この章に即した展示品として並んでいて、專ら直次郎の環境を伝えて

いたのは、尤もなことだった。

 そういう中で、展示の絵画が何点もあり、それは、天絵学舎で、直次郎の絵描き仲間だった、由一の息子高橋源吉の「門」、安藤仲太郎の「日本の寺の内部」、長原孝太郎の「自画像」、松岡寿の「ピエトロ・ミカの服装の男」といった油彩画や、師由一の著名な油彩画「江の島図」といった作品群だったのだが。それが、直次郎の絵画学習の環境として出ていることは分かったとしても、私には、何展を見に来ているのやらという、気分の混雑が高まるばかりだった。そんな中で、直次郎の作品は、製作年不明の、コンテで模写したミレーの「落ち穂拾い」一点だけだったのだから、その出来の不味さと併せて、唖然とするばかりだった。

 こうして第二章は「留学」になった。

 直次郎が、二十一歳の一八八四(明治一七)年二月に、独逸のミュンヘンに留学してから、二十四歳の八十七年五月に帰国の途に就くまでの、留学生として海外で修行した三年間の実績を披露する、展覧会中、最も期待を煽る展示空間のはずだった。しかし、その期待が、今度も、些か外されることになったのである。

 ここには、作品は二十数点あった。その内、油彩画は十八点展示されていたが、まず私を落胆させたのは、その中で、直次郎の作品は半数にも満たぬ八点だけだったことである。

 確かに、その中には、既に見知っている「桃屋の親爺」と「老人」があり、再会出来た幸せを味わうことはできた。中でも「靴屋の親爺」は、観る者に対する親爺の視線の力が、他に何点もあった肖像画に比べて、作者の意志を強く示しており、それあってか、これが既に重要文化財に指定され、高く評価されていることを知ることも出来た。

 が、そんな中で、三〇センチ程の「ドイツの少女」という作品は、男性、それも年寄りばかりを描いているところからすると、可憐な作品として期待できるところだったが、何と、描かれている少女の顔立ちは、分別立っていて乙女らしい可憐さをまるで欠いていた。

 そして、直次郎以外の油彩画作品では、まずガブリエル・フォン・マックスの「聖女マリア・テレーゼ・モールの死」「煙を出す壺を抱く女性」「猿のいる自画像」「読書する猿」といった描かれた非日常的な素材の、写実的扱いの面白い作品があったが、どうやらこのマックスは、直次郎が通った美術アカデミーの教授で、ミュンヘンで直次郎が個人的に師事した画家だったらしい。それあってか、彼の作品の後に、直次郎の、褐色の荒い筆致で描いた「ガブリエル・マックス像」が架けてあったが、そのマックスの顔は、恨めしげな眼差しに特徴があり、こんな表情に描いた直次郎の心情が気になった。

 それに続いて、今度はユリウス・エクステルの油彩画が四点並び、其の一点は、和服姿の日本の青年の、丈一八〇センチはあろうキャンバスに描かれた凛々しい立像だったが、そのモデルが直次郎であろうことは歴然としていた。ユリウスは、アカデミーでの学友だったと予想できるが、その一点、「野原の少女」は、広やかな緑野で、野花に腰を屈める田舎の少女を描いた、やがて訪れるユーゲント・シュテイールへの感傷を伝える作品で、独逸における直次郎たちの青春の一端を語っているように思われた。

 そしてこの野原の絵に並ぶように、直次郎の、七〇x一〇〇センチ位の田舎の木立の陰の豊かな庭先を写実的に描いた「風景」という作品が登場したが、これは私の眼を見張らせた。風景画ゆえに、これまでの直次郎作品で、最も新鮮だった。近景の植生の芝の上に転がる二人の男の子、柵の向こうで手仕事をするお女将、啄む鳥に飛び立つ鳥、背後に森を背負って建つ木造の家の屋根から挙がる炊煙、日差しと日陰の織り成す、音を飲み込む木立の中の静寂が、私に、深い悲しみを呼び、私は、やっと直次郎展に救われた。

 その後、直次郎の滞独中の画帳が置かれ、続いて、ツェツィーリェ・グラーフ・プファフ作の「見知らぬ女性」という作品に、毒気を抜かれてボーッとなった。それは、一五〇X一二〇センチはあろう、今日出会った絵の中で一番大きい絵だった。

 絵は、遠くの森と白い宮殿風建物を背にして、その遠くから間近まで広がって咲く、白い薔薇の花畑があり、その一番手前で、これ又白いドレスだけの女性が一人、薔薇に注ぐ面差し横向きに、斜め後ろを見せて、背の姿美しく立っている作品である。そして、この女性が、「見知らぬ」と付けられていることが、何を伝えようとしているのか気にかかる。描き手はそこに生ずるミステリーを白という色を介して謳っているように見える。

 そして、この画家の作品は、他に四点の版画が出ていたが、そちらに引かれる作品はなかった。しかし、私は、この画家が、「独逸日記」に登場していた女性だったことを思い出し、胸が騒いだ。その女性は、鴎外の筆で次のように紹介されていたのだ。

 十五日。原田直次郎共妄宅をランドフェルストラアセ Landwehrstrasse にトす。妄名はマリイ Marie フウベル Huber 氏。曾て「ミネルワ」骨喜店 Cafe Minerva の婢たり。容貌甚だ揚らず。面蒼くして躯痩す。又才氣なし。兩人の情は今膠漆にも比べつべし。原田の曾て藝術學校に在るや、チェチリア、プフアッフ Caecilea pfaff といふ 美人あり。エルラングン Erlangen 府大學教授の息女なり。

黧髪雪膚、眼鋭く準隆し。語は英佛に通じ、文筆の才も人に超え、乃父の著作其手に成る者半に過ぐと云ふ。(中略)此女子藝術學校に在りて畫を學ぶ際原田と相識り、交情日に渥く、原田の爲めに箕箒を執らんと願ふこと既に久し。然れども原田は毫も動かさること無きものゝ如くなりき。而るに今や此一小婦の爲めに家を營む。余は怪訝せざることを得ず。盖し原田の意、チェチリイは良家の女なり。若しこれと約せば一生の大事なり、マリイは旗亭の婢なり、以て一時の歌を為すに足るといふに在らん。抑々チェチリイの如き才女と婚を約すると、マリイの如き才なく貌なき婢と通ずると、執れか快く執れか快からざる。且チェチリイは資産あり。嘗て原田と倶に私財を擲ちて巴里に遊學せんと議したりと云ふ。マリイの父母は貧窶甚し。他日の紛絵恐らくは免れ難からん。要するに原田の所行は不可思議と謂ふべし。

 このチェチリイが、作品「見知らぬ女性」を見せてくれた不思議が何とも嬉しい。と同時に、「旗亭の婢」マリイこそは、先程見た「ドイツの少女」ではなかったかと、妄想出来たこともまた嬉しかった。

 そして、このコーナーには、二枚の写真、左から岩佐新、直次郎、鴎外の順で三人の若者が気取って立ち並んで写した一枚と、広場の角に建つ、カフェ・ミネルヴァのあるビルを撮った一枚の写真が資料展示されていたが、これもまた私の気分を潤わせた。

 

(二〇一六、三、三一)

 

注1

 黒田清輝と久米桂一郎は、一八九三(明治二六)年七月にそれぞれ帰国した。

注2

 鴎外の、書き残した「原田直次郎年譜」によれば、「二六年(1893)三十一歳」の項に、「九月病に罹る。十月六日次男龍蔵生る。Chicago萬国博覧會の鍳査官となり、病を力めて望査す。」とある。



以下次号

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