川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

ルネッサンスの二大画家展の天と地(二)
    ーボッティチェリとダ・ヴィンチー

承前


 一服して、私は、秋葉原から両国へ出ると、江戸東京博物館へと歩く。

 江戸東京博物館のような所へ向かったのは、なんと、特別展の「レオナルド・ダ・ヴィンチ―天才の挑戦』展が、そこで開催されていたからである。特別展のこの扱いをダ・ヴィンチがもし生きていたら、どう思ったであったろうかと苦笑してしまう。

 確かに、やってくるダ・ヴィンチの作品としては、「糸巻きの聖母」一点といってよいような展覧会だが、その一点に会おうと上京する、自分のような痴れ者もいるわけで、つまりそれほどダ・ヴィンチの名は高く大きいのだ。にも拘わらず、その展示施設が、場違いな江戸東京博物館だとは。

 ともあれ、ここでは、老人割り引きの七三〇円を支払って入館する。チケットには、ダ・ヴィンチ展であるとは謳ってあったが、その図面を飾る絵柄は、何と、月岡芳年の浮世絵「風俗三十二相 遊歩がしたさう 明治年間妻君之風俗」だったのだから、唖然として声も出なくなる。当博物館のダ・ヴィンチに対するこの失礼に、腹が立つというより、恥ずかしくって顔を覆いたくなる。しかし、この御時世、何だこれ、バッカみたい、ケッ!と笑えばいいのかも。

 私は急いでバッグをロッカーに預けると、間の抜けただだっ広い入り口から会場に入った。

 入ると、最初にダ・ヴィンチの色々な肖像画がこちらを迎えた。私に認識されているダ・ヴィンチの顔といえば、彼がチョークで描いた、著名な自画像で、頭頂が禿げ波打つ頭髪が肩先まで垂れ、長い眉毛と、頻下まで波打つ髪に覆われた、六十にはなっていようゆったりした老顔なのだ(注1)が、展示されていた三〇センチ位の肖像三点は、どれも、私の記憶に残る自画像と、髭髪の佇まいを同じくし、同じ風貌に描かれていると言ってよかった。ただ、フランチェスコ・バルトロッツィ作の横顔と、カルロ・ラズィーニオ作の着帽前向きの彩色同版画の二点は、眉間と鼻梁が若く、五十歳前後に見えた。

 そう、ローマのヴァティカン宮殿の壁面上部にラファエルロが描いた壁画の、「アテネの学園」といえば有名で、私はそれを見るためにヴァティカン宮殿へ行ったと言っていいくらいだが、そこに立ち居する大勢の学者たちの中央には、プラトンが置かれ、その顔がダ・ヴィンチのこの自画像の顔で描かれていたことを思い出す。つまり、ギリシアの学問の世界の中心に据えられるプラトンに、ラファエルロはルネッサンス芸術の運動に従事した者の中からダ・ヴインチを選んだのだ。この目線が認められるダ・ヴィンチ評価が、社会的に定着していたからなのであろう。

 それが、大きな歯車、砲身のような円筒、地球儀、大きなコンパスや分度器などの散在する「アトリエのレオナルド・ダ・ヴィンチ」というエッチングや、素知らぬ周囲の村人の中、堂々とした紳士姿で小鳥を放っている「動物を愛するレオナルド・ダ・ヴィンチ、鳥を買い取り空に放つ」という、物語の挿絵のようなリトグラフや、さらには、ダ・ヴィンチが、差し出された国王の腕にベッド上で上半身を委ね、王の後で、五人ほどの人物がそれを見守っている「フランソワ一世の腕の中で息を引き取るレオナルド・ダ・ヴィンチ」というエッチングによってよく示されている。

 紛れもなく、ダ・ヴィンチが、物語の主人公のように扱われ、それも、国王に抱かれて往生できるほどの、英雄的な偉大な存在として取り扱われたことを伝えている。

 ダ・ヴィンチという芸術家は、最早芸術家という立場を越え、国の名誉を担う、国威の徴になったと、展覧会は、少なくとも仕向けている。

 こうしてダ・ヴィンチの世間での評価を紹介した次に、初めてダ・ヴィンチの本物の作品が数片登場することになった。

 まず、ダ・ヴィンチが残した風景の素描画を基にして、それをリトグラフにしたという「一四七三年八月五日の風景」と題した、ダ・ヴィンチ二十一歳の時の、二〇センチ×三〇センチの作品が現れたが、描かれた風景の構図にも、その描き方にも、特別にこれはと思うような点を認めることは私にはできず、つまらなかった。 

 それに比して、次に登場した、方二〇センチほどの紙片に、花と花の蕾とを一つ一つペンでスケッチした「花の研究」という作品は、多くの日本画家が、練習の記録として」スケッチ帳に描き残しているスケッチに等しい営みに思われ、親しむ事が出来た。但し、そのスケッチが、特別に秀でたものだとは、私には見えない。

 そして、これには、「花の研究」を写し真似て練習をしたと分かる、同じ大きさの紙片に、同じようにペンを使って描いた、フランチェスコ・バルトロッツィの作品が並べてあったが、このバルトロッツィには、これとは別に、丁度A4サイズ位の紙に描いた「人体の骨の研究」と、「運動時の肩、腕の筋肉と骨の解剖学的研究」という二点が展示されていて、これには、どちらも全く同一のダ・ヴィンチ作品の写真が、並べ添えてあった。師匠の物をそのまま写すということが、絵画きの学習としていかに不可欠であったかを、それは告げている。

 この後には、十センチほどの小片に画き残された「羊飼いの礼拝のための研究」と「子どもの脚の研究」というダ・ヴィンチの直筆スケッチが掲げられ、更にA4サイズの紙に、屈んで立つ子どもの身体、子どもの頭部、左手の腕、左右の足先部分を、赤いチョークでスケッチした「子どもの研究」という直筆が続いたが、この「子どもの研究」には、カルロ・ジュゼッペ・ジェルリという画家が複写した作品が展示されており、と同時に、私も観たことのある、ヴェネツィアのアカデミア美術館の奥の一室に展示されている、三〇センチにも満たない、ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」という、ユーロの貨幣にまで使われている著名な作品があるのだが、その人体図を、ジュゼッペ・ジュルリが同じサイズで複写した作品も掲示されていた。

 さすがに、ここまでくると、絵を学ぶ者にとってのダ・ヴィンチの位置・価値の大きさを納得せざるを得なくなる。

 こうして、ダ・ヴィンチの、美術世界における社会的評価の高さを、殆ど強制脅迫的に学習させられた後、今回の売り物、ダ・ヴィンチの一点「糸巻きの聖母」像に出会うことになる。しかし、その前に、それが、ダ・ヴィンチとどう関係するのかとんと分からない、数点の肖像画と出会うミステリーが設定されていた。肖像画は六点あり、それが私の心を引いた。

 六点は、作者名が記されておらず、不明だったが、全て同一の画家によって成ったもののように私には見えた。作ー品の大きさは、五〇センチに四〇センチ位の同じサイズで、どれも、黒いチョークで、鋭いペンを使い、筆触細かに柔らかな弾力を感じさせる見事な筆捌きで画かれていた。

 その顔は、一点を除いて全て左を向いていた。左向きの五点の中には、女性の肖像が一点あり、その女性の肖像だけは、首から下が、真っ直ぐ左を向いておらず、正面へ傾いていた。モデルの容貌姿態を見れば、それぞれが暮らしにゆとりを持ち、社会的にも落ち着いた立場にあることが、穏やかな表情の中によく出ていて、貴族や僧侶といった階層によって、肖像画が広がり、画家の立場の向上する時代の到来を、この六点は暗示しているのか。

 そして、本日の目玉作品『糸巻きの聖母〈バクルーの聖母〉』に見(まみ)えることになる。

 その、五〇X三五センチ位の小さな聖母子像は、その部屋へ入ると、部屋の一面を黒く蔽った壁の中央に飾られていて、飾られた額の下へは、近づけないように壇が設けられていた。

 そのように覆われたダ・ヴィンチの一作を遠目に臨んだ時、あっと声を発するほどに、私は蘇ってくる思い出に硬直した。そうだ、この光景には、前にももう出会っているのだと。それは、もう三年位経つか、確か、東京都美術館で『ダ・ヴィンチ展』が催されだが、その時もこういう壁面が設けられ、そこに、矢張り小振りな「音楽家の肖像」という一点が下げられていたっけ。その『ダ・ヴィンチ展』のことをまるで忘れていたのだ。闊達な己が健忘症に唖然、呆然、暫く声も出なくなる。

 そういえば、その『ダ・ヴィンチ展』のことは、「美術展回遊記」にも書いたような気もしてくる。(注2)

 あの時のダ・ヴィンチの「音楽家の肖像」に比べれば、目玉の一点としては、今度の聖母子像の方が、きっと人気があるだろう。しかし、その人気を支えているのは、その聖母子像を真似て造られた、ダ・ヴィンチ以外の画家たちの多くの模造作品で、それを悟らせるよう展示は仕組まれているのだと、私は自分を納得させることにする。

 それにしても、作品「糸巻きの聖母」は、板状の石が層を成した岩の上に座った聖母マリアと、そのマリアに、糸巻き棒を両手に持って、抱かれる裸のイエスが画かれていた。

 通常マリアは、肌着の衣は赤く、その上に継う上衣は青く画かれることになっており、現に、昼前にボッティチェリ展で見たマリア像に、リップ父子の作品も併せて、その全てが通例に倣っていた。にも拘わらず、今私の前にあるマリアの着衣は、全て青色で塗られていた。ダ・ヴィンチだって、フィレンツェのウフィッツエ美術館の名作として評判の高い「受胎告知」画のマリア像は、その衣装を赤と青で常識通り彩色しているところからすると、ここでは一般の約束事を無視して描こうというダ・ヴィンチの意図を感じざるを得なくなる。

 ところで、このマリアに抱かれたイエスが持つ、題名にまで使われている「糸巻き」は、その実物が、作品の傍らに展示されていたが、黒っぽい四センチ幅の、一メートルを越える円心で、その上部と下部に短い横棒が付けられており、絵の中では、棒を握ったイエスの左手は、その人差し指が上部の十字のクロス部分を指しており、右手は下の十字部分を握っているように描かれていて、イエスの眼差しは上の十字のクロス部分に注がれていた。

 それに対して、イエスを抱くマリアの眼は、そういうイエスの背に、殆ど瞼を閉じんばかりの寂びた眼差しを注ぐ形で描かれている。しかも、彼女の右手はイエスから離れて、その驚きを表すかのように手の平を開き伏せて描いてある。

 もう、誰にも分かるだろう。ここに描かれたイエスは、自分自身の最後に対する運命を予感察知しようとしており、母なるマリアは、そういう運命を生きようとしている我が子の運命を知り、驚愕しているのだ。

 この寒気のする親子の運命が、マリアの衣装を全て青く沈め、背景の風景まで、一刷毛の吸色もない冷ややかな暗色の中に仕上げていたのだ。

 これが、ダ・ヴィンチの遊びだとすれば、確かにダ・ヴィンチは、隅に置けない。

 このことを、早速、この絵の模写作品二点が示している。

 二つの模写作品は、どちらも作者名は示されず、レオナルド派の作とだけ記されている。一点は、「スティーブンソン・バルンの聖母」と付記されており、今一点は、「ホラッの聖母」と付記されていて、どちらも約六OX五〇センチ大の、ダ・ヴィンチの原画より一回り大きい油彩画だった。

 よく見ると、原画の聖母子の大きさと、二つの模写作品の聖母子の大きさは殆ど変わりないのに、模写作品が大きくなっているのは、聖母子の背景が広くなっていることによっていた。それも、原画では、マリアの頭部は画面の縦の中央ラインの左側になっているのに、二つの模写作品では、マリアの鼻梁が絵の中央ラインになっていて、その分、模写のイエスは、画面の右端に追い詰められ、原画では、作品の中心に聖母子の二体が位置しているのに、模写の方では、作品の中心がマリアに移っているのだった。

 どうやら、模写の二点では、原画の表題『糸巻きの聖母(Madonnna dell Aspo = The Madonna of the Yarmwinder)』からすれば、作品の主題は「聖母」にあって、「聖母子」にあろとは言えないという判断が基になったのではないかと思われるてくる。模写には模写なりの主体性があって成り立っているということを、これは語っている。だから、模写の二点のマリアは、原画のマリアのようなヘアネットの帽子は外し、豊かな髪の、原画よりロ唇の朱の色鮮やかな女性美を、際立たせようとする意図も露に示されていた。

しかも、模写のマリアは、その顔立ちが、原画そっくりに描かれているのだが、「バルンの聖母」の方は、年嵩のいったように描かれ、「ホラックの聖母」の方は、三点の中では最も若い面差しで、娘のように描かれる違いを示していた。そしてその差は、年高の方は黒地のガウンに紺色のコートなのに、年若の方は、黒地のガウンが赤くなっている。年齢差が着衣の色目にまで及ぶ気配りが、きちんと施され、模写作品でも、一点一点が主体的個別的に取り組まれていることを、よく証していた。ここでは、模写は模写でも、スケッチの模写と作品の模写とでは、模写が違うことをはっきり主張していて、このダ・ヴィンチ展を面白くしていた。

 その後、ダ・ヴィンチの作品は、どれも二〇センチほどの紙片に描かれた、「手の研究」「ユダの手の研究」「受胎告知の天使のための左手と腕の研究」という三点のスケッチで、ダ・ヴィンチが腕や手の指のポーズに相当な神経を使っていたことを伺わせたが、そのダ・ヴィンチの作品における腕の表現の傑作として、ルーヴル美術館にある、「洗礼者聖ヨハネ」を、本展の企画者は考えてのことであろう、その聖ヨハネ像の模写作品を三点出展していたが、これも、私には面白く見ることができた。

 但し、「受胎告知の天使」というリトグラフ作品では、天使の髪も顔も左手のポーズも、ダ・ヴィンチの聖ヨハネを真似ていることは歴然としているが、上を指さして挙げた右腕は、前に出した右肩の前に挙げられていて、左肩に付けられた色黒い天使の羽との対照を作ってはいるものの、右肩から前へ出た腕の、右の胴との付き具合を悪くしてた。それに対して、二点の油彩画「洗礼者聖ヨハネ」では、右腕が、ダ・ヴィンチの原画同様、腕の前を渡って、笑まいを含んだ聖ヨハネの顔の左側で、上を指さしている。右腕を顔の左側へ持っていって、自分を相手に知らせる、その気取った手の立て方が、この絵の主人公聖ヨハネの表情を不気味に際立たせていた。間違いなく右腕の扱いによってこの絵の値打ちが出来ていたのだ。

 改めて、今見た二点の原画の「洗礼者聖ヨハネ」こそは、腕や手が、人体表現に如何に大きな意味を持つかを得心しているダ・ヴィンチの傑作なのだということを、私に納得させた。

 それ以後、十点を越す油彩画が展示されていたが、私にはダ・ヴィンチとの関係・影響の明瞭な、「岩窟の聖母」「長子と洗礼者聖ハネ」「聖母子と聖アンナ」「授乳する聖母」など、そのどれもに有難味を感じることができず、絵との間に何の緊張感も生じず、ダルな気分で額の前を過ぎて終わった。

 ただ、十六世紀のルネサンスの名もない画家たちの作品という点で、面白く見ることができる作品が二、三あって私を救った。

 その作品は、暗がりの中、合掌するかの手つきで天上に目を放ち立つ、全裸の女性の半身像を描いた、作者不詳の「悔俊するマグダラのマリア」、ジュヴァンニ・ピエトロ・いリッツォーリの描いた、大きな体躯のブルトンの腕から腕を挙げ逃れようと身を逸らすプロセルピナの裸像を描いた「プロセルピナの略奪」、二人の男性を背にして、上半身真裸になって、呆然とあらぬ方を見上げ、手にした短剣を振り上げて、己の胸を刺そうとしている女神の、膝から上の、姿を描いた、ジョヴァンニ・アントーニオ・バッジ作の「ルクレティアの自害」などである。それは、セイはセイでも俗な性の匂いの強い、清純から遠い色合いに、ある汚濁感が漂う魅力的な作品達だった。

 その作品達は、巨匠として偉人に成り過ぎたダ・ヴィンチという存在の、またそういう存在であることを宣伝しようとする主催者の、生真面目なつまらなさを、それらの作品が苦笑いしているようで、私には嬉しかったのであろう。

 それでも、展覧会はそこで終わらず、その後、ダ・ヴィンチの自筆稿が何枚も延々と続いたのだから嫌になる。たとえそれが、空を飛翔するための、科学的な思考と造形の図が記された貴重な記録資料だということが納得出来たとしても、その有り難みを有り難みとして感取する気力も最早ない。とりわけびっしり書かれた横文字世界が、イタリア語に音痴な者にとっては、煩わしいだけになる。

 その煩わしい不愉快に満腹して、私は会場を後にすることになった。

 さて、この鬱憤をどうやって晴らすのか、その術を見出しかねる私の足取りは重かった。

 

(二〇一六、二、二七)

 

注1

これは後から図録に掲載の年譜によったのだが、この自画像は、最晩年の一五一六年以後に成ったようで、そうだとすれば、一四五二年に生まれたダ・ヴィンチ六四歳以後の作品ということになる。

注2

『緑』六二九号(二〇一五年二月号)の、「鬱屈レオナルド、晴れ晴れ激石」という一文中に取り上げていた。

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