二〇一六年、今年の美術展初詣では、一月二〇日の、愛知県美術館での『ピカソ、天才の秘密』展になった。
初詣でに相応しい展覧会だとは全く思わなかったが、その、ピカソの作品が初詣でらしくない故にこそ、この展覧会を詣でる気持ちに駆り立てられていたのである。
当日詣でたピカソの作品は、一八八一年生まれのピカソが、一八九四年、ピカソ十三歳の時の作品から、一九二六年、ピカソ四十四歳の時の作品まで、一九七三年九十一歳で生涯を閉じた、長命な一生の前半部分のもの、つまり、破壊と想像が織り成すダイナミズムによって、奔放自在に作り上げられて行く作品が、ピカソそのものだと広く世に認知されるようになる、その精神と肉体の葛藤そのものこそを、自らの生の実態として知的に結晶させ、迫力をもって喧伝するに至るまでの、それだけ、画家としてまだ若く弱い、才能成長期の作品たちだった。
その若い未成熟期の作品群に、二十世紀の芸術家として、世界中で認められるに至る突出した才能として、「天才」ピカンの「秘密」を見ようというのが、どうやら主催者の目論見のようだ。
それを八十点程の、それも、その八割方を国内に所蔵されている作品によって見せようと、どうやらしているようだ。そのことが、入り口に置かれ配布されていた「作品リスト」から伺えた。これまでのビカン展の殆どが、外国の美術館や遺族の収蔵する作品を纏めて開催されてきたことを思えば、これは開催のための作品の借用費が安くて済む「ピカソ展だということになる。つまりそれだけ、催しに重みを欠く気軽に出来た展覧会で、肩を張らずに見ることが出来ることになっていたということだ。
それは、ピカソという存在そのものが、世知辛さの上に立証されるという哀れさを醸し出し、ピカソの絵を、否応なく哀れに見せてしまうことになる。これまで私には、ピカソの若い時期の絵に描かれた優れた感傷性が、その芸術的精神性の表徴として受け止められてきたのに、それが、今、金銭的現実的な視野の中に汚泥され、若き日のピカソ評価に俗物性を増幅しかねない事態を招き、私を奇妙な悲しさに落とす。
こうした奇妙な悲哀を負って、私は初詣でのピカソを観ることになったのである。
しかも、観る作品の殆どは、一メートルに達しない大きさのもので、大作という語から全く遠いサイズのものだった。だから、どの絵も、作品としての迫力や威圧感を持ってはいなかったのである。
そのピカソの絵は、おかざき世界子ども美術博物館所蔵の、ピカソが十三、四歳の時描いた石膏像のデッサンから始まっていたが、陰影の表現に細心の気配りがよく分かる。
立体を紙面に正確に再現することを目指す少年の目が、鉛筆の働きによく発現していた。そしてこの写実的再現の目は、同年に描かれた五〇センチ丈の裸体男性像二点――、一点は鉛筆で、一点は油彩で描かれていた――によって立証されている。
更に、一九〇〇年、十九歳のピカソがパステルで描いた、街や海浜の風景と人々の織り成す風俗画が三点あったが、その写実性よりも何よりも、風俗風景画という、ピカソには珍しい画材が私の興味を引いた。そこでは画題に似合わず陰影の表現が全く欠けており、パステルの色合のコンビネーションが、明瞭ではあっても決して晴れやかな明るさを持たず、ある重苦しさを持って風景を作っているところが新鮮だった。三作品の題は「宿屋の前のスペインの男女」「闘牛場の入口」「ロマの女」だったが、黒と黄土系の色で造られた光景の中に占める群青と白郡の青の魅力が、作品の値打を決定付けていた。
こんなに美しく青を使えるのだと、私は若いピカソの色杉感覚に打たれる。
この十九歳と次の二十歳の時の作品の中に、コンテを使たって画用紙に粗いタッチで描いた、椅子に掛けた着衣の若しい男性の荒描きの蒸描二点や、クレヨンで紙片に、コートの女やスカート広く立つ女を殴り描きにした二点、加えて画用紙大の紙に、並んでスカートを捲って踊る、三人の踊り子を描いた「カンカン」というパステル画があったが、それらを観ていると、ロートレックのスケッチやフレンチカンカンの作品を思いだし、ピカソのロートレックに寄せる共鳴共感を思い遣ることができ、嬉しくなった。
こうして、展示は「青の時代」と呼ばれる作品になった。作品の命脈を伝える青が決定的な意味を持つ作品は、七点の油彩画と一点のパステル画から成っていた。それは、一九〇五年、ピカソ二十四歳までの五年の間に成っていた。八点のうち、肖像画と呼ぶに足るものが四点あったが、その四点の中で最も私に詩情を齎してくれたのは、愛知県美術館所在で見慣れた、稍面を伏せ、黙々然とした「青い肩掛けの女」だった。その暗い青の中に、深い沈黙の語る寂寞が、作品の精神性を高めている。そこには、自らの青春の命の中に、燃え上がる力の躍動、発散する太陽の日差しなぞを見ようとしない、ピカソの沈思内向的な姿勢を感じることができる。
この肩掛けの女に対応するかのように掛けてあった、黒髭に覆われた白く痩せた顔貌の「男の肖像」の一点も優れていて、その男の、前に投げられた黙想沈思の眼差しは、まさしく「青の時代」のピカソの内実を語って余りあった。
肖像画以外の青い作品で気になったのは、「スープ」という一点だった。約四〇センチ四方の小品だったが、青い壁面を背に、青い衣装の黒髪の女性が左を向いて、両常に湯気の立つ白い鉢を捧げ持って、頭を垂れて鉢に祈りを捧げるかのように立ち、その女性の前に、黒いお下げ髪の少女が、こちらは白い衣服を纏い、右を向いて、目前の女の鉢を持った手元へ、両手を差し伸べて立っている絵だ。初め、大人の女性が、少女に鉢のスープを与えようとしている場面だと思ったが、その女性が手にした鉢に深く頭を垂れて、その視線が手元の方に注がれ、少女の方には向けられていないところを見ていると、このスープは、白服の少女が青服の女性に与えた場面だと分かってきた。そして羽こそ描かれていないが、少女はエンゼルなのだと読め、女性は貧しさの徴(しるし)として描かれているのだと納得がいった。
すると、この「スープ」と前後して並んでいた、青色の世界に描かれた油彩画の「海辺の人物」と、若いピカソの代表的なエッチング作品として著名な「貧しき食事」とが、芸術家ピカンの人間に対する社会的認識を伝えているように思われてきた。つまりそれは、社会的に軽蔑差別されて過ごす貧しい者たちへの同情の眼差しであり、弱者への瑞々しい愛の表現である。しかもそうした愛の表現は、決し てビカンだけに発するものではない。ロートレックにもルオーにも、その作品を通じて色濃く示されていることではないか。
そして、ピカソには、おそらくこの視点があったればこそ、五十四歳になった一九三六年に、故国スペインに人民」戦争が勃発し、ゲルニカにおける市民の受けた悲惨を知ると、大作「ゲルニカ」を発表するに至り、その発信の政治性が、画家としての大きさを決定的にできたのだ。
それはさておき、この生きることは食べて行くことの辛労に他ならないというピカソ自身の発想が、作品として表現されるとき、色彩を離れた、凡そ五〇センチ×四〇センチの「貧しき食事」というエッチング作品に結晶する。画集などでよく知られた作品で、池田20世紀美術館が所蔵しているのだ。線描の細かな絵は、クロースの上に大皿一枚とコップ二つ、ワインとも言い兼ねる一本の瓶以外には、一欠片のパンしか見られないテーブルを前にして、中年の痩せた男が同じく痩せた女の肩に手を回して座している。極めて貧しい食卓の景である。飾る色さえ持たぬ貧しさの無言の深さを、絵は寒々と湛えていて、作品としての揺るがない力を示している。
しかも、本展では、同じ美術館所有の、「貧しき食事」の四分の一大の「貧しい人々」というエッチングもあって、
それには、親子四人の、父親だけが地に立ち、母親は地上に座して、その隣に接して二人の子どもが裸で描かれていた。
そのあと、三つの作品が目を引いた。サーカス世界の二人の立像を描いた「道化役者と子供」というパステル画、彫刻としてたった一点出ていた、クラウンを被った道化役者の頭部を、四〇センチほどに鋳した「アルルカン」というブロンズ像、青の時代さながらに着彩された、右手を上に、扇を持った左手を前に、それぞれ構えて左向きにポーズを取った、一メートル大の「扇子を持つ女」という油彩画の三点だったが、ピカソも多くの画家たちと同じように、非日常世界を日常として生きる芸人達に、自分の生を重ねていたことがよく想像出来る。
こうしてその後、一九〇六年の「パンを頭にのせた女」からは、褐色が主彩の、最早何処にも青色を見ることのない作品が展示され、この新しい色彩感の許に、一九〇八年以後のキュビズム作品が登場することになった。
言うまでもなく、キューブ(Cube)とは立方体のことだが、そもそも、三次元の世界を二次元の世界に置き換える絵画表現には無理と嘘が生じることを意識したとき、どのように立体的に表すかに苦闘葛藤した先駆的な画家としては、世紀末のセザンヌがいる訳だが、それを可能にする一つの方法として、三次元の対照を立方体的(Cubic)に把握認識して、二次元の紙面に絵画化することを考え出したのが、二十世紀初頭に発した、ピカソたちのキュビズム運動だったのだ。
それは、ピカソの二十代末から三十代前半にかけての時代だった訳だが、それは、彼の作品が感覚的姿勢から理論的姿勢へと変化する過程を示していたのだと読み取れた。
その作品は、油彩画とエッチングでそれぞれ八点ずつあった。そのうちエッチング作品は全部愛知県美術館のものだった。
最初の「頭部」という作品は、キュビズムがまだ十分発現されていなかったが、続く「裸婦」になると、頭部や乳房や臀部は円形で、背や腕や脚は直線で把握され、それがあれこれ組み合わされて身体を造成しており、キュビズム作品が円と直線によって構成されることを教えてくれている。確かに近代が機械文明の進歩によって構築されてきたことを考えるなら、車一つ――鉄製の機関車をイメージすれば忽ち分かることだ――をとっても、円と直線によって構成構築されていることは、目に見えたことだ。
そのことが、色彩のないエッチングの「テーブル」「レオニー嬢」「修道院」を見ると顕著に実感できた。
油絵の方では、ブラックの作品を連想させる「ギターのある静物」や、実際の新聞紙の切れ端を貼り付け着彩したりして、分析と総合のキューブの世界を作ろうとしている「ブルゴールのマール瓶、グラス、新聞紙」や、頭髪部分以外には、円曲の線の殆どない、四角の断片を集合させて、読書する女性を作り上げた「読書をするコルセットの女」など、それぞれの切れ端の色彩のコンビネーションが、ピカソのセンスのよさをよく発揮していて、キュビズムのピカソらしい消化振りを面白く見ることができた。
しかし、このキュビズム作品の後、四十代にさしかかるピカソ作品が十点ほど、それも全部着彩の作品が並べられ、それらの作品が、こちらを出口から気持ちよく送り出す手配になっていた。
その十点の最初が、一九一八年に結婚した、ロシア出身のバレリーナ、オルガ・ユクローヴァを描いた三〇センチほどの「オルガ・ピカソの像」だった。そのオルガの静謐な表情は、まるでルネサンス時代の肖像画のような、古典的な写実振りによって描かれており、それが俄然、新鮮な佇まいを見せていた。
そして、それに続いては、四〇×五〇センチ大のスケッチに近い、淡彩のパステル画、「四人の水浴する女」と「三人の裸婦」の作品と、他に小さな作品二点があったが、その後、一メートルに八〇センチ程の、まるで現代の聖母像のごとき、母親が膝の上に赤子を抱いて座している、その体格の豊かに描かれた、「母子像」と題する堂々とした油彩画が出ていた。そしてその脇に、同じ母子を横から距離を置いて描いた三〇センチ程の「母子像(子供を抱く女)」という小さな油絵もあった。
どちらの作品も、一九二一年、ピカソ四十歳の時の製作だが、この年の二月、妻オルガは息子パウロを出産していたらしいのだ。
この二点がこちらに示す生命力というものは、パステル画の裸婦の群像からは殆ど感じられないものだった。それを痛感した次に、ほとんどパステル画のような調子で、淡いグレイ一色と白の油彩で、八〇に六〇センチほどのサイズに仕上げられた「肘掛け椅子の女」という一点が登場した。
その女性は、無しの薄手の衣装と肩掛けを纏い、面差しを少し左に向けて、眼差しはその左手にぼんやり置かれ、ていた。しかし、何よりも、その白い絵の具で、肌の豊かさが浮き出るように描きあげられた手腕は見事で、二点の母子像に続けてこれに接すると、この女性のモデルがオルガであろうことは、最早疑いようがなくなる。描かれたオルガのそのゆったりとした穏やかで大らかな姿を見ると、古典的な肖像画にはない、ピカソ自身の、決して青の時代には見られなかった、豊かな幸福感が、派手ではなく、質素と言っていい色合いの中で表現されていることに気づく。
ということは、展覧会が、ピカソ四十にして家を成し、父と成って、芸術家としての生を生きる旗幟をあげるところで、幕を降ろすことにしてあったのだ。
私は、正月らしい目出度い大作に出会うことはなかったが、気分よく会場を出ることができ、ピカソという画家の生に、その体温を感じるように触れ得たハッピーを、初詣での御利益として感じることになった。
(二〇一六、一、二七)