承前
久隅守景展を観てサントリー美術館を出ると、十一時半を過ぎていた。しかし、どこかで昼食を摂ろうとする意欲は起こっていなかった。ただ、私の足は、国立新美術館の方へ進んでいた。そこで開催中の『ニキ・ド・サンファル展』を観ようと思っていたからである。私には、その国立新美術館一階フロアーに儲けられているオーブン・カフェで、サンドイッチなりパンなりを買い、飲み物も宜しく選んで、空いている席に掛け、一服している自分のイメージが、脳裏に出来上がっていたのである。
私は、イメージ通り、誰に気遣いすることもなく、気侭にのんびりと喉を融わせて気分を軽くし、ニキ・ド・サンファルという、初めて知る女流画家の作品と出会うこととなったのである。
そして出会いは、その冒頭から、私を驚かすことになった。
何しろ、会場に入って早々の壁面一杯に貼り付けられた、彼女を紹介する写真が、傍らの男性と並んで、壁面に向かって銃を発砲している姿であり、もう一枚は、やや小ぶりに貼られた、銃口をこちらに向けて構えた彼女の半身像だったのである。
言うまでもなく、発砲の姿は、目の前の現実に対して、それを打ち壊そうとするニキの意志の表現であり、銃口がこちらに向けられているのは、ニキの現実破壊の意志が、彼女を見る観客のこちらに対しても向けられていることを語っているのであろう。
その写真の後、彼女の出自の概略が掲示されていたが、ニキこと、本名カトリーヌ・マリー・アニエスは、一九三〇年に、フランス人の銀行家アンドレ・ファル・ド・サンファルの長女としてパリ郊外で生まれたとあり、私には、彼女の日曜美術館で紹介されていた芸術作品からすると、違和感が生じたが、その成長時をアメリカのニューヨークで送り、その教育を、修道院の付属学校で受けて育ったこと、しかもその間に父の事業の倒産再建があったことを知ると、ニキのアメリカでの成長こそが、彼女の作品に直結する、性格の造成に決定的な意味を持ったであろうと、想像がいった。
それに、その生年を考えれば、第二次世界大戦の終わった年は、ニキの十五歳に当たり、世界は、大きな変貌を余儀なくされた時代だったはずだ。ニキは美術を専攻する学校など行かなかったらしく、十八歳の時には、音楽のコンダクターを目指す青年と結婚し、二年後には女児を出産し、その、経済的安定から程遠い生活が、ニューヨークからボストンヘ、ボストンからパリへ、パリからニースへと点々と続き、精神障害にまで陥ったと紹介してあったが、それあってこそ、ニキの芸術活動の出発が、無謀にも銃の発砲にまでなったことに得心が行く。と同時に、女性でも、芸術の世界に生きようとする、発想の自由が許容されるような、そういう時代が到来していた現実が、ニキの幸いを齎したと喜ぶことができる。
そういう紹介のあるニキ展出発の、この最初の部屋には、「アンファン・テリブルー反抗するアーティスト」というタイトルが掲げられていた。
その最初に置かれた作品に、一九六〇年前後のものだったが、手鏡、ナイフ、乳児の靴、櫛、ピストルといったさまざまなオブジェが、板上に石膏で塗り固められた作りで、「緑の空」とか「消火栓」とか、勝手な題が付けられていたが、そこにあるのは、明らかに既成の芸術概念を全く無視した、絵画とか彫刻という伝統的範疇を逸脱した作品になっており、ニキにとって、画材も彫材も、表現にとっては一素材(オブジェ)でしかないことを物語っている。
次には、縦一五○センチ、横四〇センチ位の板、今一点は縦二メートル、横一メートル五〇位の板の、それぞれ白いバックの上部から黒・赤・黄といった色の絵の具が、下へ何条も流れており、よく見ると、それぞれの流れの頭部には、穴が空いていて、それが、弾痕だとすぐ分かり、前者には「長い射撃」の題が付けられ、後者には「スエーデンのテレビ番一組のための射撃」の題が付けられていたのに、今度は納得がゆく。
この発砲射撃作品や、さまざまなオブジェを組み合わせての彫塑的作品も、一九六三年までに作られていた。一九六〇年と言えば、ニキは三十歳になっているはずで、彼女の美術活動における発言が、青春の語を卒業した年齢から始まっていることを教えてくれていた。
こうして次の部屋へ移動すると、その入口には、掲示された「女たちという問題」の文字を読むことが出来たが、ここで最初に出会ったのは、多様なオブジェを組み合わせ、板の上に石膏で固めて、女の姿の彫塑的な作品に仕立てた五点があった。一点は六三年、残りの四点は六四年の制作になっていたが、中でも、石膏の白さを生かして固めた三体、「白の出産、あるいはゲア」、「ルクレツィア(白い女神)」、「花嫁」の三点は、現代芸術における、ニキという個性の一つの到達点と見倣すことができる、私には見甲斐のあるものだった。
とりわけ「白の出産」は、高さ二メートル、幅一メートル、厚みが四〇センチはあろう女性の股より上の裸体像だったが、その裸婦の開脚気味の股の割れ目、子宮の真下から、頭を下にして赤子像がぶら下がっていた。つまり、子供の誕生、出産の一瞬を彫像と化しているのだ。頭を下にした赤ん坊は、足先を子宮の内に止めながら、万歳の姿勢で下がっている。出産のその女性は、その顔と乳房だけは何のオブジェも使わず、石膏だけを固めて造られ、それ以外の人体は、何体もの玩具の人形や、さまざまな鳥獣や虫の縫いぐるみや置物、日用の小道具や造花などのオブジェによってしっかり集約され、石膏で固めて、がっしりとした豊かな体躯に仕立てられていた。そして子宮の前を指す右手の人差し指だけには、黄金色が着彩されていて、女性の顔立ちと共に、堂々とした作者の意図を伝えようとしている傑作に思われた。
私は、ニキに心満たされて先へ進む。
すると、六五年から七〇年までに造られた作品として、新たにボリエステルという素材を使って、乳房と腹と股とを豊かな球形で人体大以上に造形した、発刺豊満の体躯を持った女性像十数体と、それを円を中心に明瞭な線と色とで図案的に絵画化した、一メートル前後の何枚もの作品に出会うことになった。
それらは、一九六〇年代後半から一九八〇年にかけて造られたものだったが、そこには、女性のボリュームたっぷりなどの作品にも、動的マンガ的発現のダイナミズムが溢れていて、ニキにおけるニキ的作品の到達を感取でき、自然と顔が崩れ、嬉しくなった。
この活躍の時期、ニキは子供を手元に引き取り離婚して、自立の姿勢を鮮明にしているが、次の「あるカップル」と名付けられた小さな部屋には、十点程の作品があって、小ぶりなカップルの立像と豊かな巨木の下にカップルが立つ絵以外に、新しい造形は見られなかった。しかし、一九八〇年頃、最早、ニキの作品は一つの到達点に行き着いて安定したことを、それは語っていた。
そして、次の部屋が、「ニキとヨーコーー日本との出会い」と題した部屋になったのだが、部屋の初めに記されたガイドによれば、このヨーコとは、日本の実業家として活躍した益田静江のことらしく、この女性が、ニキの絵に魅かれ、自社ビル内に、ニキ作品の展示室「スペース、ニキ」を開いて、ニキの宣伝に努め、ニキとも付き合い、その際ヨーコと名乗ったというのだ。
そのヨーコは、一九九四年には、栃木県の那須高原に、世界で初めての「ニキ美術館」を開館し、それもあって、九八年には、ニキは娘や孫も伴って来日したようである。
このコーナーでは、そのヨーコ宛のニキの絵手紙が、十通の余あったが、描かれたさまざまな絵が手紙芸術に見事昇華していて面白い。ニキの手紙文の横文字が、その絵画のリズムを伝えるかのように状紙に魅力的に書かれていたのだ。日本画に見る画質とは、その音楽的時代性がまるで違う明るさを奏でていて、ニキの感性のよさをよく示していた。
その最後の絵手紙では、「これはあなたの素敵な国の影響です」と記した文の下に、合掌をして仏像然と胡座座りをした、頭上の髪も私らしく編み上げた女性像が、赤・青・緑・黄の四色の美しい衣を着て描かれていたが、頭上には仏花に見立てた花三花が立ち、その脇には「寿」の捺印を観ることができたのである。
そしてこの部屋を出ると、次の「精神世界Spirituality」の部屋に入る。
この部屋のタイトルが、「物質世界Materiality」を意識的に前提にした上で付けられていることは明らかであろう。それは、人間が頭の中で、自らのために勝手に考え出した実存しない存在、神や仏や善悪に渡っての妖怪変化が、ニキを動かしたことを言うのであろう。
その作品は、立体像が殆どで、どれも高さ一メートルを超えるものだった。それは「魂の自画像」、「言葉の散歩」といった抽象的な事項の立体化作品や、エジプト神話の女神「トリエス」とか「ギルガメシュ」、インド、ヒンドゥー教の「ガネーシャ」などが、ニキ的劇画風にカラフルに造形されており、挙げ句は、一メートル二、三〇はあろう白い歯、黄色い頭骨の「髑髏」、三メートルは超している「ブッダ」―先の絵手紙同様の胡座合掌の像が造られており、ニキの学習の広がりを深めてきていること、それが重厚を育み定め、発砲する意志をより強固にしてきていることを知らせていた。
そして、それが、最後の部屋の「タロット・ガーデン」に結実したのである。しかし、この「ガーデン」とは、一体何処の楽園なのだろう。きっとニキの作品によって造られた大きな公園なのであろうと、彼女の作品のスケールを念頭に、想像してみる。
すると、何と、このタロット・ガーデンは、アメリカやフランスではなく、イタリアのトスカーナ地方に造られたものだと分かる。ニキが二〇年以上かけて、自らが資金一切を調達して造った自分の公園であるらしい。
展示されているのは、実際のガーデンに置かれ飾られている作品のミニチュア(今、その作品の題名だけを記しておくと、「スフィンクス(女帝)」、「正義」、「月」、「世界」、「悪魔」、「蛇の樹」、「大きな肘掛椅子」と言ったものである)であり、作品としては丁寧に仕上げられた下絵だった。そして、壁面に大きく貼付された、大きなカラフルな展示物を、緑豊かなガーデンに多様に据えた光景の、何点かの写真によって、ガーデンの実際を想像実感できるようにしてあった。
このミニチュアや下絵を、実物大にまで、拡大してイメージすれば、その公園の広さが相当なボリュームを持った物だろうと想像することは容易だったが、恐らく遊楽・休息の場もトイレも全てニキのデザインによる、遊具や建物で出来、ニキ一色で成り立っていることを想像するとき、その中に収録され続けることが、面白さと驚きだけで、終始できることかどうか、大いに不安になる。或いは、一度訪れたら、再度そのニキの騒大の宮居に詣でようとは思わない人が、生まれるのではないかと案じられもする。
ともあれ、こうしてニキの世界に驚きながら、国立新美術館ニキ・ガーデンの出口から出た。
しかし、ニキ・ド・サンファル――。何も知らなかった自分が、その名と共に、その名の女性の生きざまを、遠く思いやりながら、その成果としての作品を観、初見の彼女にも拘らず近親の情さえ抱き、新たな知遇を持ち得た、しかも、現実に目の前に出会ったなら、逃げ出したくなるであろうと確信出来るだけ、この幸せが嬉しい。
しかし、再度彼女の展覧会に会う時は、もう私には訪れないであろう(注1)、と思うと哀しくもなる。
(二〇一五、一二、五)
注1
後で図録の年譜によって知ったことだが、ニキ・ド・サンファルNikideSaintPhalle)は、二〇〇二(平成一四)年五月二一日、カルフォルニア州サンディエゴの病院で七一歳の生涯を閉じている。その死亡記事の後、ニキの遺骨が娘によって太平洋に散骨され、タロット・ガーデンの計画は中断され、維持・管理のみ継続されていることが記されていた。
また、一九八七年(五六歳)の折り、フランスのレジオン・ド・ヌール勲章授与の候補者として推薦された際、ニキは受賞を断ったと記されていたが、彼女の自己認識が半端なものでないことを語っていて、ニキに対する私の好感度を決定的にした。