川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

日常世界への愛執と、そこからの自己解放
    ー久隈守景とニキ・ド・サンファルー

 十一月二十七日、二つの展覧会を見るべく上京した。品川で新幹線を降り、山の手線で恵比須まで行き、地下鉄に乗り換えて六本木に出ると、東京ミッドタウン・ガレリア三階のサントリー美術館へ足を運ぶ。そこで開催されている『久隅守景』展が、今日の目的の一つだったのである。美術館の人口の取っ掛かりの所に、国宝になっている久隅守景の著名な「納涼図屏風」(注1)が、展示期間を終了し、出展されていない旨が告知されていた。そのことを、わたしはもう知っていたのだが、その屏風の展示期間中に上京の機を作ることが適わず、名作に今一度見ることのできない悔しさこそ大いに生じたものの、何せ、久隅守景の作品を個人展として纏めて観るのは、初めてのことだったから、それが適う期待を押さえ込むことは到底できず、今日に至ったのである。

 扠、展覧会は、『久隅守景』の名に「逆境の絵師」の肩書が添えられており、脇下には「親しきものへのまなざし」の添え書きが見えて、作品と対面するに当たって、守景にどんな画家としての不幸があったのか、それが気になった。

 彼が、狩野探幽守信の弟子であることは知っていたことだが、その名守景が、師の名の「守」の一字を貰って名乗ったものだとは、冒頭の壁面にあった紹介文の中で記されていて、それを見ると、画家としての出発に、「逆境の絵師」と言われる守景の不幸などは見えない。

 ともあれ、探幽の弟子、狩野派の画家として、その初期の二つの大作に、まず、出会うこととなった。その作品は、四面ずつ八面からなる襖絵の「四季山水図」と、六曲一双の屏風絵の「瀟湘八景図」である。しかし、この二つの大作は、正直、ど。ちらも私をまるで引き付けない。襖絵の樹木に四季の風情は乏しく、近景に描かれた長い回廊の殿閣などは山水の景をぶち壊すために建っているとしか見えないし、八景図の方は、中国伝来の八つの詩句通りに描かれているようだが、その山水は鋭角的に新鮮ではあっても、八景の詩情の瑞々しさからは遠く、心の、真面目な優等生的な硬直ぶりが強くて窮屈だった。その他数の山水画もあったが、どれも、まるで絵手本のような作品に私には見え、退屈だった。

 私の目を引き付けたのは、その後登場した、畳一枚分はあろう「十六羅漢図」の軸物四点だった。私に深く記憶されている守景の人物的画像と言えば、「納演図屏風」の、瓢の棚の下に涼を取る、夫婦とその子供の三人の、何とも意地らしく胸詰まるほどの愛しさを抱かせる姿に尽きるのだが、見えた四点の羅漢図は全て墨書で、その顰めっ面の頑健な坊主頭が、決して荒々しいタッチで描かれていないにも関わらず、どれもある力強さを、柔らかな筆の流れに溢れさせていて、これぞ久隅守景の人物画像らしい表現と、初めて出会う新鮮さに、私は心のどやかになっていたのである。

 そしてこの喜びが、次に現れた四季耕作図の屏風に出会って極まる。

 それは、旧浅野家本と旧小坂家本の、どちらも重要美術品に指定されている「四季耕作図屏風」の二点で、どちらも六曲一双の、縦約一、五×横三、五メートルの大きさの屏風一対から成っている、大作だった。作品は農村の四季の耕作を扱った作品なのだから、その春夏秋冬の百姓農民たちの暮らしぶりが、季節毎に三曲ずつに割り当てられて描かれているはずで、私の目は、屏風に描かれた農民の暮らしの姿を、腰を屈めてガラス越しに見ることになる。間違いなく、私の記憶の中の、国宝「納涼図屏風」の三人の貧しい百姓の親子三人の優しい姿が、私に初その姿勢を取らせての鑑賞を求めるのである。

 まるで腹這いになって観るように、視線を下げて屏風を見て行くと、その二点共が、画面の右端から「春・夏」、「秋・冬」の本の順に従って、時の移ろいが、左へと描かれていってはおらず、なんと、右端から左へ向かって、「冬・秋」、「夏・春」の順で描かれていることが見えてきた。屏風が、一双の物ならば、展示に従って右曲から左曲へ、それぞれの右端から左端へと、見て行くのが通例になっているのに、何故冬秋夏春の順に見るような描き方になっているのか、まるで、時間的遡行が、回想性を高めるとでも言うかのようだ。

 しかも気づけば、そこに描かれている農民たちは、日本の百姓スタイルでは描かれていない。身なり、頭髪の具合から中国人だと分かる。すると、エキゾチックな気分になり、それが、現実離れを齎し、この屏風の世界の時の流れを、穏やかなテンポにしているように感覚されてくる。

 ひょっとしたら、狩野派においては、農民の世界の表現は、山水の世界の表現同様、中国風に描くこと、つまり異国的でそれだけ非現実的な世界として表出することが目論まれていて、そこに写実ではないロマンの表出を、自分達の企図する絵画運動の徴にしようとした、ということか。

 旧浅野家本では、右隻右端から、軒先の踏み臼での米搗きのペアー、木立の下を脱穀米を入れた籠を下げて語らいながら通る男たち、家の中で磨り臼を廻す男たち、その家の前で、唐?を手に脱穀をしている男たち、その左には、驢馬に稲束を積んで運ぶ男たちの列へと続き、左隻の右端からは、田植えをする四、五人、その左には降りしきる蝶雨の下、小屋に逃げ込んだいた雨宿りの百姓たち、その左には、やはり雨の下を驢馬と走る男ーー驢馬は背の籠で苗を運ぶのであろう――、そして、鋤や鍬を振るったり、牛を使っての田起こし、一番左には、家の前で遊ぶ子供たちと、春の畑に錫を立てる男が、描かれていた。この描かれている事柄と、右から左への手順とは、旧小坂家本の一双においても同一である。

 しかし、絵の内容の輪郭の大方を墨で描き、控えめな色彩を施した、この「墨画淡彩」の絵は、背景の、煙る雲霞と共に描かれた横に長く続く自然の景色が、「茫漠」というに相応しい雄大さを彷彿と示しており、その分、下界の農民の営為の小さいことが、まざまざと伺え、殆どそれは、習俗を唯反復して暮らすに過ぎぬ民の貧しさとそれゆえの強靱さとを、悲しさを覚えるまで描いているように見えたのである。屏風の大きさに比べ、色彩の表現が地味なだけ、作品は沈んだ悲しみを醸成し易くなったということか。私は、自分が親しく思っている久隅守景の情緒に出会え得た喜びに浸る。

 その後、この屏風絵作品は、六曲一隻の「近江八景図」、六曲一双の「鷹狩図屏風」、「加茂競馬・宇治茶摘図屏風」の都合三点との出会いへと続いた。

 流石にこの「近江八景図」には、始めの「四季山水図襖」や「瀟湘八景図屏風」のような気張りがなくなり、建造物や人事が山水に溶け込み、柔和な自然の光景として治まってはいたが、その景色が、左端の二曲と右端の一曲に均質な筆遣いで片寄っており、中央部分の広い空白が、美を纏めかねて絵を弱くしてそれに対し、鷹狩図は、八曲からなる屏風の一双、つまり二点の、全体の長さが十メートルを超える大作だった。しかもそれは、墨画ではなく色濃く描いた濃彩画で、背景の天空部分が、何と金色で塗布されており、それが、下界の丘陵や木立の、横に続く図案化した緑の流れと呼応して、鷹狩りの場の広い空間を造り出していた。その広大な土地に点在する狩りの参

加者たち、その狩りを受け入れている村の子女たちの小さな点在が、部分毎にさまざまな物語を生み出していると伺えるが、なによりもそれらの営為を生んでいる人為の小ささが、四季耕作図に近い情調を覗かせているのだ。画彩も画題も派手になっているだけ、作品が横長く大きくなったこととも併せて、人為の悲しさ空しさを、からりと表出してしまっていることに気づく。

 それが、「加茂競馬・宇治茶摘図屏風」になると、六曲の右隻の茶摘み図と、左隻の競馬の絵とに、一隻の題材がそれぞれ別で、描かれた光景が全く異なり、茶摘みに勤しむ宇治の村人の仕事ぶりと、その道沿いの家並みと、道の先の宇治川と見なされる川に架かる橋の活況を描いた右隻の景と、加茂別神社の競馬の祭事の、右端の赤い鳥居を人が潜る入口から、左手の端まで続く参道に、一直線に柵で設えられた馬場と、そこを走る騎馬の武士、その柵に沿って、身なりを整えた武家の家族たちを中心に多くの観客が見ている、賑わいと遊びの左隻の景であったが、その二隻の画面の上半分と下端の部分は、金箔を用いたきらびやかな輝きをもって仕立てられていた。しかし、最旦しみじみとした情調を作品から感じることは不可能になっており、それだけ、私の中の守景から、それは遠ざかった作品になっていた。

 ところが、この作品が、本展で最も価値の高い「重要文化財」の指定を受けていたのである。このぴかぴか屏風絵が、文化財として高い評価を受けているのは、幕府の御用絵師として、その権威を背に自らの画風を重厚絢爛の輝きをもって確立した狩野派の作風を倣った上での見事な出来が、高く評価されたからであろうか。

 しかし、この後、守景の作品に、ぴかぴか路線作は一点も展示されず終わった。そして、出展こそされていなかったものの、私の守景観の基礎になる、二曲一隻の「納涼図屏風」が国宝に指定された事実は、守景の評価を決定的にした、守景の幸せだったと思うのだが、ぴかぴか路線から離脱したらしい守景の画家としての立場を思いやれば、守景の人生を喜んで済ます訳には行かないのであろう。それは画家守景としての不幸の招来にしかならなかったのではないかと、勝手に寂しくなった。

 この後、出品作は、治どが刷物になった。

 軸物の多くは、鳥獣画だったが、「鷺図」の一羽の職、「喜鵲図」の列を成して屯する八羽の鵲、「猿猴捉月図」のどこか緊張を欠く惚けた気分を作っている白黒二匹の猿のどれもが守景らしく、楽しく見ることができた。

 それに続いて、六曲一双の「舞楽図屏風」と、「六歌仙画帖」、「小野小町図」の軸と色紙が続き、屏風の演奏者と舞人との鮮明な描き方や、能因法師や赤染衛門の表情の表現が精彩を放って、これらも気持ちよく、気分が爽やかになった。

 そしてその後は、「牛乗り天神図」「山越達磨図」「釈迦図」「寒山措得図」「臨済栽松図」「普化禅師図」等の水墨画の軸が並んでいたが、描かれた人物は、どれも力みがなくユーモラスでさえあって微笑ましいが、そこに、しんみり感の乏しいのが、私には侘びしいことだった。

 ここに至った守景に、これ以上接し続けることは、もう、よかった。

 この後、守景の息子や娘の作品が、何点か展示されていたが、私は殆ど素通りに近い歩調で、出口へと急いでいだ。拘ってきた久隅守景の情緒に、もうこれ以上呪縛されていたくなくなっていたのである。

 

(二〇一五、一二、五)

 

注1

私が二曲一隻の国宝「納涼図屏風」に出会ったことは二回は確かで、一回は一九八六年、東京国立博物館で催された、昭和天皇の御在位六〇年を記念しての『日本美術名宝展』でであり、今一回は、二〇〇一年、同じく東京国立博物館で催された『美術の中のこどもたち』展においてである。

 

以下次号

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