不思議な一日だった。それは二つの展覧会を見るための上京だったが、展覧会の鑑賞もさることながら、その時間と場所との織り成した一日の移ろいぶりが、お上りさんの自分とっては、混沌迷妄の印象が強く残る奇妙な一日を味わわせることとなったのである。
ともかく、六月十八日のその日は、老人の欲張りボケにつくづく呆れる一日になった。
二つの展覧会をあてに、いつも通り八時過ぎのひかりで妻と上京した私たちは、まず八重洲口からタクシーで築地に向かった。
他でもない、やがて場所を替えるという噂が高まっている名所の魚市場に、当の魚市場が消える前に、一度行っておこうと思ったのだ。
訪れれば、築地の魚市場と、それに接する路地仕立ての魚河岸横町一帯の佇まいが、まず混迷混沌の賑わいの中にあった。その賑わい混沌の散策の挙げ句、とある店で、中とろの刺し身ときんきの煮付けを頼んで早めの昼食を取った。取って、タクシーの拾えそうな大通りまで歩き、時を経ず拾うと、汐留のパナソニック・ミュージアムを訪ねた。目論んでいたのは、『ルオーとフォーヴの陶磁器』展だったが、これが、見事、混沌の迷路展となったのである。
展覧会の主役ルオーは、私の格別好きな画家であり、それは『緑』でも語った通りだが(注1)、重ねてフォーヴィズムの画家のヴラマンクやドランやマチス、といった名前を連想すれば、そうした画家たちの造った陶磁器の世界に、興味をかき立てられない訳にはいかなかった。
陶磁器と言えば、絵画・彫刻中心の美術作品とは異なるデコラティヴ(装飾的)な美術として捉えられるわけで、私には、美術史的に、一九二〇年代に興ったアールデコの芸術活動のことが思い出されもし、本展が、どうやら、フランスの「アールデコ」と言われる芸術運動の、陶磁器領域における活動を纏めたものなのだろうと想定もできた。
ところが、本展の展示作品を実際観て廻ると、私の知っているフォーヴの画家たちの陶磁器は、その絵画によって培ってきた各画家の魅力を、まるで感じない、恰もヨーロッパの街の広場で開かれる市場の骨董・古道具の店先に置かれ、売られている陶器のように、薄汚れてお粗末に見えたのである。否応無しに風情混迷の中に引き込まれ、呆然、声も出なくなってしまった。
僅かに、ヴラマンクの四点の花瓶のうちの二点、「植物」と「黄色の花と葉」は、彼の特徴である絵の具の重い濃彩と荒々しい筆刷けとは異なり、太い輪郭線の筆の流れと単純化された色のコンビネーションによって、アールデコらしいデザイン陶器を生み出していて、その鮮やかさが救いになった。
それに加え、フォーヴの画家たちに陶磁器の制作を啓発した、陶芸作家アンドレ・メテの作品を、陶磁作品のデザイン画と共に見ることになったが、メテのことは何も知らなかっただけに、その仕事振りには興味深く目を遣ることができた。
その作品の始めは、形も大きさも日本人には馴染みのサイズ・形態の壷や花瓶で、その中に、肩から釉薬を流し掛けにした、我々には馴染み安い渋さで仕上がった、そこに日本の陶磁器の影響を見ること容易な作品が何点もあった。
それが、陶磁器作家メテに対する親近感を生む。
その施釉の仕方が、日本的な釉薬の自然な流れから、デザインとしての着彩釉に、図案と色彩の両面において、まさにメテ的に変貌してゆく、その過程も面白かった。面白さは、図案の描き方が、鋭い線描を一切持たず、穏やかな、水墨画の筆遣いに近く、その色の組み合わせが、金箔画が醸すような日本画的な厚みを作り出していたからであろう。そういう造形は、純白の地と明快な線画との光彩美を誇る、マイセンやセーブルの陶磁器とは、全く縁遠い、メテの生み出した陶器が、明らかにジャポニズムの影響の下に造られたものであることを伝えていた。
しかし、その着彩に、白く塗り残した箇所は全くなく、カップの内側、皿や蓋の裏、全てを、表と差別なくびっしり施釉してあるのは、余白の美を重んじる日本画の手法とは全く対蹠的な洋画的発送で、そこにメテの個性が見える。
その作品は、描かれた図柄上、「植物と幾何学模様」と「人物と動物」に二分して展示されていたが、その裸婦を基にした人物の図案と、幾何学模様の円を多様に使った図案とを見ると、陶磁器に日本人の扱うことのまずない西欧性を感じさせ、とりわけ、その円の中に色々なポーズの裸婦が描き込まれた陶磁器を目にすると、これぞ脱ジャパンと、嬉しくなった。
そして、そうしたメテ作品の一点毎の下絵図が、陶磁器作品の後に纏めて展示されていたが、何故かメテの静かな息遣いを耳にするような気がした。
そのメテの生没年は、一八七一年~一九二〇年と紹介されていたから、ルオーと同い年だということになるが、そのメテから手ほどきを受けて作陶をしたルオーの陶磁器作品が、会場の最後を飾っていた。
が、それは、メテの作品から受けた快さからは、まるで縁遠かったである。
ルオーの、水溶女やサーカス曲芸団の娘たちが、多彩な絵の具で暗く醜く、まるで描き捨てるような筆遣いで描かれた、その作品の印象は強いが、その絵画表現が、そのま、陶磁器に運用されるとき、その色彩は、皿や壷の磁器の肌の固く滑らかな艶光の中に、紙やキャンバスのように吸い取られることがなく、油彩の厚塗り面が持っているざらざらした絵画作品の実在感そのものを消してしまっていたのだ。磁器の肌の冷ややかなつるつる感が、光の反射の輝きを伴って、見慣れたルオーの油絵の実感から、私を疎外してしまうことになったのだ。
ボンボン入れ、水差し、花瓶、ポット、カップとソーサーのティーセット、大皿、陶板といったルオーの陶磁器の作品は三〇点ほど、同数位の油彩画と共に出ていたが、その陶磁器に絵付けされた絵の半ば以上が、水浴女や裸婦像だった。その殆どが、私には、用具として日常使用する気にはまるでならない陶磁器だった。かといって、置物として置いておくにしても、部屋の風情を好ましく高めてくれるとも思われなかった。展示室の壁には、描かれた素材の相似た絵画作品が展示されていたが、ひょっとして、そういうルオー作品とコンビにして部屋に置けば、部屋の佇まいをユニークに面白くするかも知れないとは思ったが。
そんな中で、丈三〇センチ程の、顔を包むかのように両腕を上げ、身をくねらせて腰を下ろした、裸婦の丸彫り彫刻の陶磁器像があったが、それは、その肌の陰の部分の黒や茶、肌のあちこちに浮かぶ緑や青の、汚れのような染みを点々と上面に滲ませていて、ルオーらしい不思議な風情を造っており、今一点、三五センチ程の大皿は、その裏面に、裸婦像が、白い体を黒太の線で荒々しく描いてあり、しどけなく股を開いて座したその裸婦は、伏せた面に不思議な侘びしさを漂わせていたが、その皿の表側には、皿一一杯に、「オフィーリア」と題した女性の肖像画が描かれていて、その顔はルオー的に暗く、どこもかしこも汚されたように色厚く沈んだ筆触で描かれ、そういう筆触の中で、黒っぽく見える赤い花で髪を飾り、赤く沈んだ宝石の連なったネックレスで首を飾った、紅濃密な唇と、見開いた眼差しに懸念を漂わせたオフィーリアの貌(かおだち)が、不思議な魅力を発していた。
この二点が、私に、間違いなくルオーの陶磁器の芸術作品だと思わせ、私を救った。
そして、この、珍しいオフィーリアとの出会いが、次の展覧会へ行く気力を私に齎す。
会場を出て、館内でジュースを求めて飲む。その一服が美味い。
さて、パナソニックのミュージアムを出ると、私たちは、頭に入れた街路図を頼りに、地下鉄銀座線の新橋駅に歩く。そこから表参道まで行って、千代田線に乗り換え代々木上原に出る。そこで、小田急線の急行に乗り換えて向ヶ丘遊園まで行く。しかし、まるで見当もつかぬ土地なので、駅前からタクシーに乗り、岡本太郎美術館へと頼むと、車は木立に囲まれた池田緑地の山道を上り、驚いたことに、「日本民家園」という平屋建ての和風の建物の前で降ろされた。そこから運転手の指示に従って、階段状の山道を下っていくと、美術館だと目される建物が下に現れ、池のある広場に出た。その脇を通って闇雲に建物の裏手から表側へ廻ると、漸く美術館の入口に到着したのである。
川崎市岡本太郎美術館は、これほどの迷路の果ての山中に、ただ一荘、周囲を山に取り囲まれて、まるで山中に身を隠すかのように建っていたのだ。
この美術館の在り方に呆れたが、今は漸くの到着に安堵し、ここも老人手帳の御利益で、割引入館をした。
一体、私たちが、今日ここをわざわざ尋ねたのは、「日曜美術館」で紹介されていた竹田鎭三郎というメキシコ在住の画家の絵に惹かれ、その展覧会がここで開催されているからだったが、入館すると、竹田鎭三郎展については何の案内もなく、先ずは、岡本太郎の常設展示を廻覧しなければならなかったのは、何とも落ち着かない。
一体、竹田鎭三郎の展覧会を、どうしてこんな僻地になる、個人画家名の美術館で行うことになったのか、私は、慌てて入館時に手にした「竹田鎭三郎」展のチラシを見る。すると副題に「メキシコに架けたアートの橋」とあり、それは、「日曜美術館」でも、メキシコに永住している画家として案内されていたので頷けたが、本展ではさらに一行、「岡本太郎《明日の神話》を支えた画家」と断ってあって、はっとした。
岡本太郎の大作「明日の神話」との縁で、この美術館で竹田鎭三郎の展覧会が催されることになったのだ。同じく手にしていた、常設展の展示作品の目録プリントに目を遣ると、プリントのタイトルが、「川崎市岡本太郎美術常設展、《明日の神話》街と人、壁画を巡る物語」となっているではないか。
言うまでもないことだが、岡本太郎の「明日の神話」は、東京池袋の駅構内の壁面を飾る大壁画で、それは元々メキシコのホテルのロビーの壁画として制作され、ホテル廃業後現地で保存されていたのを、日本へ運んできて現在に至っている作品だが、岡本太郎が、メキシコでその「明日の神話」を作成したのは、太郎五十七歳の一九六八(昭和四三)年のことであり、その時鎭三郎は三十四歳、渡墨して、既に六年目になっていたようである。
その鎭三郎が岡本の助手を勤めたお陰で、メキシコでの大壁画の作成が叶ったと言ってもよいとしたら、この美術館の常設展に、「明日の神話」の関連資料を展示して、「竹田鎭三郎」展を開催することは、竹田にとっても大いに意義のあることになったわけだ。
私は、やっと岡本太郎の常設展示室を観て通らねばならぬ始末に、こじつけめくが納得せざるを得なくなる。
展示の最初の一室は、太郎の両親、岡本一平とかの子の写真や資料で飾られている。
そのあと、太郎が扱った東京都庁舎壁画の原画三点や、神田駅の壁画の原画二点があった後、「明日の神話」のデッサン二点と原画の油彩画一点が展示されており、竹田鎭三郎への導入役を見事果していた。
回路として仕組まれた太郎作品の展示室を巡った後、そういう閉ざされた空間から解き放つように、広く四角いフロアーに出ると、そこから、今日の眼目である竹田鎭三郎の作品を観て廻ることになった。
その竹田鎭三郎の、年譜的案内を見て、まず驚いたことは、彼が愛知県の出身であること、しかも、地元の画家として、私がその独特な造形美ゆえに深い好感を寄せている、長年メキシコに在住した画家、瀬戸生まれの北川民次と同じ瀬戸の生まれだったということだ。つまり、竹田鎭三郎という画家は、北川民次という同郷の先輩画家のお陰で、メキシコの在留邦人等への連絡紹介を受け、それあって、今日まで渡墨在住する日本人画家として、その名を残すことになったのだ。
メキシコの影響は、北川民次の場合にあっては、その民族的風俗・宗教が、メキシコ革命によって変革近代化した、メキシコの新時代を体感することによって齎されたものだ(注2)と、私には思われているが、竹田鎭三郎の場合には、メキシコの近代革命は既に国民的に受容定着しており、伝統的で風土的な風俗や宗教の特質が、よりメキシコ的な本質として受け入れ安くなっていたと思われる。それは、北川の絵には、リベータ、オロスコ、シケイロス、さらにはタマヨと言った画家たちの作品を重ね見し易いのだが、竹田の絵にそれらのメキシコの画家たちの作品を思い重ねることは出来なかったのである。展示作品を辿ると、この北川との影響差が、竹田の作画への独自性を決定的にしていることがよくわかる。
その日本とは全く違う、しかも西欧的なものの受容と共に生じた新時代のメキシコ美術とも異なる、違いの新鮮さ、その魅力が、彼にメキシコの地に生涯を埋め続けさせることになったのであろう。
そんな彼の、瀬戸の時代の二十代の油彩画と木版画がまずあったが、油彩画では、農民的人物の取材に、その色の濃密な用い方が、よく呼応しており、物はその色によってイデーの表現になるということを、若い竹田は、よく感収していると思わせた。それに対して、木版画では、農地も母子像も、日本的ではなくエキゾチックで、異国への憧憬を伺わせた。
その木版画は、次のメキシコシティ時代の作品でも多数あり、リトグラフの作品とも併せて、白と黒との濃淡線画の表現に、竹田が余程魅力を覚えていたことを伺わせる。主題の多くは祭りの行事の人出で、画面の中の、大小不均等な人物の群像表現が、民族的・風俗的なダイナミズムを、うまく醸成していた。
そのあと、竹田が定住する事になったオアハカでの作品が、今度は、どれも一×二メートル以上の油彩画で並べられていた。そして、描かれた素材の中心を成すのは、土着の女性の半裸、または全裸の姿だった。ゴーギャンが、タヒチに住み着いて、タヒチの裸の女性を多数描いたようにである。しかも、竹田が描くオアハカ裸女の絵が、黄褐色を主にした赤色系で纏め上げられているところは、色彩的にもゴーギャンのタヒチの作品の影響を明瞭に示しており、それへの驚きが、何故か、竹田の作品に対する親近の情に水をさす。それは、考えれば、竹田の描く女が、まさしくオアハカ土着の、その民俗を体に滲ませている、竹田の個性を、見事表白しているからだ。
女達は、或いは髪を洗い、或いは泳ぎ、或いは木陰に横たわり、或いは掌に米を受けして描かれているが、ゆったりたっぷりとした赤く黄土色の体が、ゴーギャンの絵を超えた豊かな抱擁力を持っているのである。その幸せを竹田はこちらに与えてくれているのだった。それは、その絵の中に同居しているメキシコの花や木、馬や鳥や蜥蜴たちをも、ゆったりと幸せにしていた。
最後には、それが壁画風にまでなって、オアハカの風土の歴史的な流れの表現に辿り着く、竹田のオアハカ的存在として生きようとする意識まで見ることになった。しかし、私には、壁画に至るまでの作品の、赤と黄土の世界の創出の過程が、私に幸せをくれる最も嬉しいものだった。
見終わると、私たちは、館内のカフェへ行った。些か小腹も空いていたので、ケーキをとってコーヒーを飲んだ。タクシーを呼べるかを聞くと、この玄関前には来れないから、バスの乗り場まで歩いて行けとのことである。既にタ暮れの気配も迫れば、急いで屋外に出、森の中の道をバス停へと歩く破目になった。
岡本太郎ではこうはいかないだろうが、竹田鎭三郎の暖かい作品に出会ったお陰で、暗がり行く林の中のバス停への細道を、妻と足軽く辿ることができた。
帰って、図録の棚から、北川民次のものを捜し求め、久しぶりにその作品を懐かしんだ。二冊あって、一冊は一九八九年の夏、名古屋市美術館で開催された時のものであり、今一冊は、一九九六年の暮れから九七年の正月にかけて愛知県美術館で開催された時のものだった。その民次の晩年の、焼き物の町瀬戸の佇まいを描いた風景画が、竹田鎭三郎のメキシコの風俗に徹した絵を見た後だったからであろう、私にはひどく懐かしく偲ばれた。
(二〇一五、六、二八)
注1
『緑』二〇一四年の六・七月号に「聖域化した道化の世界」と題して記した。
注2
因みに、メキシコ革命は、一九一〇~一九一七年に起こった民族主義的な社会革命だが、一九二〇年代には、カトリック教会勢力の氾濫を抑え、教会財産、鉱山、石油の固有化と農地改革を、国民革命党の結成と共に実施した。北川民次がメキシコに入国したのは一九二一年一一月で、一九三六年七月帰国するまで、一五年間主としてタスコで活動した。それに対して竹田鎭三郎がメキシコに渡ったのは、一九六三年九月で、一九七八年一月から、オアハカ州オアハカ市に居住し活躍している。