川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

珍しや、スイスからの到来物二つ(二)

承前

 

 翌日、昨日の『チューリッヒ美術館展』で、その一部屋があてがわれ、六点の作品が出展されていたスイスの画家フェルディナンド・ホドラーの展覧会を観に行った。今度の会場は、上野の国立西洋美術館である。

 フェルディナンド・ホドラーは、一八五三年に生まれ一九一八年に没しているというのだから、モネ(一八四〇~一九二六)やルノワール(一八四一~一九一三)の生きたのとほぼ同じ年代になり、印象派が、華々しくフランスを中心にして美術の世界を席巻していた時代に重なるのだが、その印象派から後期印象派への時期を飾った画家たちの名前の中に、これまで、ホドラーの名を聞いたことは一度もなかった。

 そのホドラーが、日本・スイス国交樹立一五〇周年を記念しての展覧会に、スイスを代表する画家として(なのであろう)、スイスを代表する美術館の『チューリッヒ美術館展』と並べて、『フェルディナンド・ホドラー展』と、スイス画家の個人名を立て、その会場も、同じ国立の「西洋美術館」で催されるというのだから、主催者側の入れ込みようも、相当なものだと考えざるを得ない。

 前日、『チューリッヒ美術館展』を見た後、夕刻から、日本橋浜町の明治座で、猿之助一座の、鶴屋南北の「四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどざま)」の通し狂言を観たので、七日の今朝は、水天宮脇のホテルから人形町の地下鉄の駅へ歩き、そこから日比谷線で上野へと出てきたわけである。

 さてホドラー展にが、始めの「光の方へ――初期の風景画」の部屋から、最後の「終わりのとき――晩年の作品群」の部屋に至るまでの、七つの展示室にわたって、ホドラーの画家としての生涯を、百点を越す作品によって展開昭示していたのである。そんな彼の業績を辿る最初の「初期の風景画」の部屋で、その初期作品が、意外なことに、私の共感を呼び起こしたのである。私は、ホドラーに、その画家としての力量を認めることができたのだ。その風景画には、印象派とは言えないものの、印象派時代の筆遣いを色濃く感じることができる、写実性の高い自然な作品が数多くあったからである。

 その自然を、あるがの姿で描いた樹木の作品が、最初の、初期作品の部屋に五点ほど見られたが、柳やプラタナスやマロニエ等のそれらの木々は、どれも群木としては描かれておらず、平地の中の、他の樹木から離れた孤木として、描かれていた。しかもそれらのどの木も、地に大きく根付く巨木ではなく、一人佇む孤独な風情を示して地に立っていた。しかも、木はどの絵も晴れた広やかな空の下に立っている。

 それに対して、人物像は、初期の部屋には、自画像一点があるだけだったが、それは、自画像作品としては珍しい、キャンバスを横長にして描かれたものだった。一八七三年の作だとガイドしてあるのだから、ホドラー二十歳の自画像ということになるが、画面中央に、右を向いて、顔面を七割方こちらに向けた半身像で、その像の右側は倉庫か何かの板戸のようなもの、左側は薄暗い野外と見える空間が描かれ、どうやら自画像は、生活的な場としての背景の中の存在として表現されたようだ。キャンバスが横長なのも、風景の中の点景として自分を捉える意識が、そこに働いていたからだと見て取れる。しかもその顔はこちらを睨みつけるような目線を見せて描かれている。

 改めて、描かれた木々は、それぞれの樹木の、ある位置でで-生きる自画像だったのかと分かり、二十代の青年が自分の存在というものに向ける眼差しというものを、正直に投影した、「自己」の表現に拘りを持った画家であることを語っていた。

 ホドラーのその発想は、一八八〇年代、彼の三十代の作品になると、悲観と絶望、それに連なる死が、生の象徴であるかのようにして描かれていた。自画像は、黒い背景の中から、黒い服を纏った、眉間に深い皺を寄せた髭面の男の顔が、こちらを睨みつけており、それには「怒れる人」の題名を与え、不毛の固い土に横たわる裸の老人の絵には「死した農民」の題を、樹林を背にした緑野に敷かれた白布の上に、頭部に血を流して横たわる裸の青年を描いた絵には「傷ついた若者」の題をつけている。さらには、伝説上の「さ迷えるユダヤ人」を描いたものだろうと想像ができる、白髪白背に覆われた日焼けの面を伏せ、杖を曳いて歩く老人を描いた「アハシュエロス(注1)」とある作品や、しかもこのさ迷えるユダヤ人と、髭も髪もそっくりの風貌をした、右掌で額を覆うようにして面伏せになって雑誌に目を落としている「読書する老人」を描いた作品が目に立ち、それらが、この画家の、暗い自己への拘りを語っていて、重苦しさを示していた(注2)。

 そして、この沈鬱からの脱出を図るかのごとく、一八九五年以後の、群れとして人間を描くことに挑戦し始める、ホドラー四十代の作品群に出会う。

 先ずは、何れも中年過ぎの老いを向かえた五人の男たちが、白衣を纏い何一つ手にせず一人一人沈思暗澹の面差しで、枯れ葉の散り敷く石ころ道を、裸足で左方に列をなして歩んでいる、一、五メートル×二、五メートル大の「オイリュトミー(注3)」と題する大作で、背景が歩む道沿いの草以外は、まるで靄のような暗灰色で覆われているのを見ると、この五人が、死衣装を纏い、死への道を辿り歩んでいるのだと想像することは、ごく自然にできた。

 それに対し、その後、今度は、三十代から四十代にかけての女性四人が、左から右へと次第に青い衣を身に纏い、草と赤い花―花は一花ずつ団子状にびっしり描かれている―の背景の前を、その背景側に顔を向けて右へと歩いている、一メートルに二メートル位の作品が登場する。題は「感情Ⅲ」とある。更に三人の裸の女が白い花が散り敷いた草土の上に座して、それぞれに何かを祈るかのような姿態で描かれた「昼Ⅲ」(二×四メートル?)や、裸の若者と白衣の少女が草の大地――ここでは黄色い花が敷き詰められている――に座して、仕草にそれぞれの相手に対する感情が描かれている「春Ⅲ」(一×一、五メートル?)が登場していたが、そこに、躍動とまでは言えないが、生命のリズムへの祈りとでもいったものが込められていることは分かった。しかしそれに私は、格別魅かれたわけではなかった。

 むしろその次の風景画群の中にあった、「ミューレンから見たユングフラウ山」の三点、と「シャンペリーの渓流」二点(どれも一メートル大の作品だった)の岩の表現が、ダイナミックな配色の切り替えで、目を魅いた。但、それに対してレマン湖やトゥーン湖の広い湖面とその奥の山並みを描いた作品群は、そこに静謐の偉大を見ることが私には適わず、落胆が残るのみだった。

 その後、ホドラーが五十代に取り組んだ壁画のための、多くは群像による下絵が並んだが、この表現は、現代の多くの劇画家が描きそうな漫画チックなもので、芸術的感興に乏しく、それは更に晩年の作へと進むと、直接に滑稽を狙いとした作品に結晶しているのだった。

 それは、再晩年の恋人の、白い床上に上を向いて横たわる痩せ細った死体を描いた「バラの中の死したヴァランティーヌ・ゴデ・ダレル(バラは全て赤色の団子状で、作品の背景の上部に点々と描かれている)」や、「バラのある自画像(バラは右肩上にはピンク色で三花、左肩上には臙脂色で三花が描かれている)」「緑のジャケットの自画像」の二点の自画像によっても証明されていた。

 どうやら、バラこそは命の徴なのであろう。

 「パリジェンヌ」と呼ばれていたらしい美人の誉れ高かったヴァランティーヌも、鼻梁のみ高く、全ては骨と皮のみと化してしまうその死体を、目の前の事実として認めざるを得ないのが、現実というものであるのに、そういう現実というものを、希望とか未来とかいう言葉の中に包み込んで、見てくれの格好のみ付けて生きてきている自分のありようを、ナンセンスな滑稽と見る目が、己が老齢化と重ね合って、嫌も応もなくホドラーに齎されたのであろう。

 それが、初期の「怒れる人」の自画像や、「死した農民」「傷ついた若者」の死体の絵とは比べ物にならない、筆と色との遊びタッチで描かれ、それがそのまま作品の題名にまで及んでいることが、よく分かり、ここにきてこの展覧会を見にきた甲斐があったと救われた。

 私は、ホドラーという画家と少しは関わりえたそこそこの気分で会場を後にすることができた。

 そしてその午後、同じ上野の都立美術館で催されていた『ウフィツィ美術館展』を観た。「黄金のルネサンスボッティチェリからブロンヴィーノまでという副題を持っていたが、さすが天下に名だたるフィレンツェのウフィツィ美術館だけのことはある、堂々七十五点の出展だった。尤も、その中の二〇点は、同じフィレンツェのアカデミア美術館やパラティーナ美術館等からの出展ではあったが、まさしくルネサンスの華の美を伝えるに充分な作品群だった。

 中でも、私を喜ばせた作品を以下に簡単に記しておく。

 まず、冒頭にあったドメニコ・ギルランダイオの「聖ヤコブス、聖ステファヌス、聖ペテロ」の三人の聖者を描いた大作と、同じギルランダイオの、墓地の前で聖者と墓守りに支えられて立つ半裸のキリストを描いた「キリストの埋葬」の細密な表現の冴えた二点。

 次ぎには、ベルジーノの、恐らくはわが子キリストに対して手を合わせる喪服の半身を描いた「悲しみの聖母」と、幼児キリストを膝上に抱いたマリアとその両側の二人の聖女を描いた「聖母子と二人の聖人」の二点。

 それに、どちらも、高い十字架に掛かるキリストの磔刑像に向かって膝まづき、改俊の意を訴える聖ヒエロニムス、つまり定番の「改慢の聖ヒエロニムス」を描いた、バルトロメォ・ディ・ジョヴァンニとベルジーノの、それぞれ構図も受ける情調も異なる二点。

 他には、肖像画として、フィリッピーノ・リッピの「老人ルの肖像」とアンドレア・デル・サルトの「自画像」の、表現に力を感じさせた二点。しかし、何と言っても、最大の出し物は、ボッティチェリの作品七点が出展されていたことである。その七点の内、最大の作品は、再来日(注4)の、二×一、ー五メートルはあろう「パラスとケンタウロス」で、髭面のケンタウロスの髪を右手で掴み、左手で大きな鉢槍を持って立つパラス=女神ミネルヴァの、オリーブの冠を付け、オリーブの憂で上半身を飾った美しい姿態は、右手に弓を立て肩から旅を下げて恨めしげにパラスを見返るケンタウロスの姿によって際立って、懐かしかった。

 しかし、ボッティチェリらしさは、聖母子を扱った作品五点に極まっており、中でも直径一メートルは越す円形の「聖母子、洗礼者聖ヨハネ、大天使ミカエルとガブリエル」と六十センチは越す縦長の「聖母子と洗礼者ヨハネ」の二点は、その人体的表現の動きによって透明な静謐さがまさしくボッティチェリらしい色艶で造形されていて、これだけで十分展覧会が堪能出来るものになっていた。

 会場の終わり部分には、メディチ家のタピスリー製作所が作成したタピスリーが三点あり、どれもフランチェスコ・サルヴィアーティ作画のものだったが、一番大きな三×二メートル位の「十字架降架」は、ヨセフによって背を支えられたイエスを右寄りに、左側のイエスの足元に膝まづいてその手を取り口づけをするマリアと、その後から身を乗り出すようにイエスの亡骸に目を注ぐマグダラのマリアを織った織物が、その色彩陰影の濃淡もほとんど褪せていない状態で、見ることが出来たことも、祈りに近い沈静な余韻の中に展覧会を締め括る、その手際のよさが憎くなるほどだった。

 私は、ホドラーだけではとても得られない澄明な気分になって、この日の鑑賞を終え、帰りの新幹線の車中での居眠りを快くできることになった。

(二〇一四、一一、一八)

 

注1

 Ahasuerusで、これは、ペルシャ語の「偉大な人」を表す。新約聖書「エステル記」では、主人公王妃エステルの夫である王の名前。ペルシャ語ではXerxesという。『聖書事典』日本基督教団出版局。1992年刊)。なお仏語の「Ahasvenus」を引くと、「迷えるユダヤ人の名で知られる伝説上の人物」とあり、宗教的には「永遠の流浪者」を言う。

注2

 これは後から図録の年譜によって知ったことだが、ホドラーは七歳の時父を亡くし、十四歳の時母を亡くしている。彼は、六人兄弟の長男だったが、弟妹たち全てが、ホドラー三十二歳までに死んでいる。母は、再婚し、彼は義父の世話になるのだが、その義父も彼が二十歳の時には死去しており、経済的にも無一文に近い状況だったと分かる。

注3

eurhythmy(eurythmie〈仏〉)。リズミカルな運動、均整・調和のとれていることを表す語だが、ホドラーは、人間の死へ歩む運命に、リズム的な美を読み取ろうとしたのか。注4来日したこの絵を見たのは、一九八一年三月、愛知県美術館で、中部日本放送創立三〇周年記念として催された『イタリア・ルネッサンス美術展』においてで、もう三十年以上昔のことになる。

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