「鳥獣戯画」を観た後、私は、岡崎公園へ向かった。京都国立近代美術館で行われている『ホイッスラー展』を見ようと思ってのことである。
その前に、腹拵えをしようと神宮道を辿り、食堂の一軒でランチ定食を食して美術館に向かった。
ホイッスラーと言うと、白い頭巾を被って裾長の黒いワンピースを着、左向きに椅子に掛けた彼の母親の肖像画ーーそれはオルセー美術館所蔵のものであるーーが、何度も日本に来たこともあって(注1)、まるでそれが彼の代表作のように私には記憶されているのだが、私がホイッスラーに寄せる共感は、決してその母親の肖像画に発しているのではない。
それは、もうかなり昔に観た彼の展覧会ーー『ホイスラー展』と名付けられていたーーに発しているのだ。ジャポニズムの画家としての魅力を、自分が日本人であればこそなのであろう、哀しいほどに、その時の「ホイスラー」は私に伝えてくれたのである。
その『ホイスラー展』を観たのは、一九八八年一月、大阪梅田の、大丸梅田店の十二階にあった大丸ミュージアムでのことだから、もう二十五年も昔のことになる。そう言えば、あの頃はよく大丸ミュージアムへ行ったものだが、あのミュージアムは今もあるのだろうか。
ともあれ、その時見た「ノクターン」は、それが広重の『名所江戸百景』の「京橋竹がし」や「両国花火」を下敷きにして成っているだろうことは想像のゆくところだが、ホイスラーでなければ描けない、まさに日本語の「夜想曲」というに相応しい、夜気の奥行きを、消え行く花火の侘しさと共に痛感させる、ユニークな作品になっていて、そのノクターン的情調に、私は郷愁的な親しさとでもいう愛着を抱いてしまったのである。
そのホイスラーが、今度は『ホイッスラー展』となって、折りも折り、京都へ来てくれたのである。私は、鳥獣戯画と高山寺の展覧会では味わえぬ、ノクターン的感傷に浸りたくなっていた。そして、幸いなことに、美術館に入館する時、私の浸りたい感傷に相応しく、天気は、空が重い雲で閉ざれていた。
そして、ホイッスラーに会ってよかった。
二十五年振りに出会った彼の作品は、私に彼に対する新鮮な喜びを改めて齎したのである。
展覧会の皮切りは、人物画からだったが、その五十点近い出展作品のうち三十点ほどは、エッチングとドライポイントの版画の小品で、私の視線は拡散して終わってしまう。そういう中で、ホイッスラーが四十歳近くなって描いた油彩の三点は、注目に値する魅力を発揮していた。
一つは七五×五〇センチ大の自画像で、それは、絵を描くに当たっての、ガウンのような汚れた白衣を纏って、右手に二本の絵筆を持ち、鍔広の黒い帽子を被っている上半身像で、顔面の表現を中心に、粗く残る筆履けの線が、不思議と体温を醸す魅力を持っており、今一点は、前記自画像とほぼ同じ大きさで、「アナベル・リー」ーーそれは前回も見た記憶のある女性像なのだがーーと題されていたが、言うまでもなく、アナベル・リーは、エドガー・アラン・ポーの詩に詠われた女性なのだから、その詩からイメージされたリーを絵にしたものに違いない。
そのリーは、海を背にしたベランダの柵に、ドレスをゆったり羽織り着た両の手を伸ばして凭れ、衣装の下から白い裸身を透かし見せて立っている。背面の海も、赤みを帯びた空も、女の衣装の浅葱色も、黒髪の顔の朧と共に、画面全体を朧化する筆履けによって仕上げられており、そこにホイッスラー的叙情が詩的に作品に造出されていて味があった。
そして三点目は、一七〇×一五〇センチはあろう大作で、先述の母親像と同じように、黒い服装で左を向いて椅子に掛けた老齢の男性像である。ハイカラーの上の老人の顔は、顎頬鼻下の髭黒く、右手は黒手袋を嵌めてステッキを持ち、膝上の黒い山高帽の手前には、左手が素手で置かれている像で、題は「トーマス・カーライルの肖像」となっていた。
カーライルといえば、初期の漱石が「倫敦塔」に続いて書いた随筆「カーライル博物館」のカーライルであろう(注2)。私は改めて、四十歳近い先輩のカーライルを描いたホイッスラーが、夏目漱石より三〇年は早く生まれていた画家だということを、念に入れることになった。この三点は、一八七二年頃までには出来ていたようだから、漱石の幼児期にはもう出来上がっていたのだ。
その後、作品は「風景画」に括られて出展されていたが、そこでは、いきなり六〇×八〇センチ位の、「オールド・ウエストミンスター・ブリッジの最後」という油彩画に出会い、それが、私の足を何故か釘付けにした。
ウエストミンスター・ブリッジと言えば、テムズ川の、ロンドンのシンボル、ビッグ・ベンの国会議事堂に向けて架かった名橋のはずだが、その古い橋が、新しく架け替えられるその工事情景を、ロンドンの一風景として描き上げているのだ。
解体新築工事のため、古い橋を囲んで組み立てられ、川に建て込められた無数の木杭や木組みが、新しい鉄橋の仕組みが終わり、大勢の人々によって取り外され始めている、そのために小さな木の舟が何艘も脚柱の下に群れているそういう風景で、その全体が、テムズの流れも含めて暗褐色の濃淡の中で仕上げられている。遠景の議事堂の姿も高いビルなどのないロンドンの街の遠景も、全て暗褐色である。そして遠景の上に広がる雲の散る青空が、その遠景の街と工事に取り組む白い人影の現場の暗褐色世界を際立たせている。
時代の流れとしての刷新を、新築の側面からではなく、解体と消失の側面から捉えようとするホイッスラーの眼差しを、その暗褐色は語っているように思われた。
印象派の作品にもこういう風景画がないとは思わぬが、これほどに人の携わる労働風景をこれほどに薄暗い解体作業として印象的に描き上げた風景画は、私には初めてのものだった。
しかし、私を驚かしたのは、それに続いて、「16点のテムズ川の風景エッチング集」の十一点と、同じテムズ川を取り巻くエッチングによる風景画十一点の、小さな作品の一群れが展開したことだった。その小さな作品群は、人物像のエッチングとはまるで異なる鮮やかな印象を作り出していた。
そこに描かれているのは、テムズ河畔の様々な波止場であり、波止場に憩う帆船や小船、波止場の奥の川沿いの、倉庫や工場に住宅を交えての様々な建物、そして何より、それらの作り出す場所に働き過ごす、様々な出で立ちをした男たちによって培われる、実に雑然としたテムズ河畔の澱んだ日常を示す風景だった。
そこに見えるのは、使い古された物の世界であり、それに馴染み過ごす豊かではない庶民たちの暮らし振りだった。「オールド・ウェストミンスター・ブリッジの最後」に続けてこれを見れば、新しい時代への変化が起こり始めているにも拘わらず、これまでの古い暮らしのままに過ごす人間たちへの共鳴が、はたまた、やがては消え去って行く物への感傷が、「ブリッジの最後」の暗褐色を引き継いで、ささやかに描き上げられていて、そこに、華やぐ表世界とは異なる、ロンドンの裏町の日常を愛するホイッスラーの眼差しを、新たに実感することになったのである。
風景画では、その後、ヴェネチアを描いた、パステル画やエッチングが何点かあったが、それらは、ホイッスラーらしく、運河沿いの、水辺に開かれた家の裏口に注がれた視線の上に成り立っていた。
こういう経緯を経て、私は「ジャポニスム」の語で括られた、懐かしい作品群に出会うことになる。
ここでは、まず初見の三点の人物像に癒される。とりわけ最初の「紫とバラ・・6つのマークのランゲ・ライゼン」の、あちこちに置かれた青磁の焼き物に囲まれるように描かれた、牡丹と竜の織り込まれた明るい中国服を着て青磁の壷を手に椅子に背を凭せ掛けている女性像の、伸びやかな姿が気持ちよい。
他の二枚は「白のシンフォニー」と題した作品で、一枚は、八〇×五〇センチ位の縦長に、白いふわふわの地のドレスを纏った、黒く長い下げ髪の若い女性が、団扇を右手に下げ、顔を横向けて暖炉の前に立っている姿が、足元の鉢の躑躅のピンクと暖炉上に延ばした手の先に立つ青磁の壷の藍とで、物思わしげな娘の優しさを引き立てていた。
もう一枚の五〇×八〇センチ位の横長には、白いカヴァーの長椅子の左側に、上半身を横倒しにして掛けた白いドレスの女と、長椅子の右手に、座してその椅子に凭れて右腕を載せている黄色いドレスの女が描かれ、右手の黄色い娘の左手先の団扇と、その女の右端に描かれた白い躑躅の花とが、どうやらジャポニズムを証しているようだが、これにはこちらから情緒を感じることはなかった。
ここでは、それより三〇センチにも満たない、下書き風の三点、「日本の衣装を纏う4人の女性たち」と「青と金色」のパステル画二点と、「日本の団扇のある人物像のためのスケッチ」という油彩の一点とが、完成していないだけ衣装や和傘や団扇扇子といったジャポニズム的素材を、取り込み自分たちの日常的空間のなかに消化しようと如何に齷齪したかをよく伝えていて面白い。
そこにあるのは、モネやゴッホのジャポニズム的吸収とは違う味の深さを持っているもののように思う。
こうして、展示作品の最後は、あの「ノクターン」と、その成立に関わるスケッチ群、更には、そこから尾を引いて奏で続けられた、幾多の「ノクターン」作品によって括られていた。
久しぶりに「ノクターン・・青と金 オールド・バターシー・ブリッジ」に会い、再び私は、暗がりへ引きずり込まれ沈んで行く心の傾きに溺れた。陰のように暗い木橋の下の小舟の艦に立つ一人の男の陰、それに橋上の幾つかの人の陰、そしてその先の対岸の暗紫色の水辺に灯る小さな明かりの幾つか、その上の同じく暗紫色の空に散る花火の微かな火屑、それが、ホイッスラーの織り成す「青と金」の世界なのだ。
この一点に、これを作り上げるに至った、オールド・バターシー・ブリッジの、「幅広い橋」とか「背の高い橋」とか名付けられた、四点の船上からのスケッチと、ソレントやアムステルダム等の水上の夜景を描いて、いずれも「ノクターン」と名付けられた、三点の油彩画と一点の水彩画とが、添えられていた。
私は、そのノクターンの音色に酔うというよりは、その音色の微かな風のような流れが肌に触れて過ぎるのを感じていた。それを感じながら、私は、始めの方で見た、ホイッスラーの自画像の顔を思い出していた。そして、自分の瞳を濁り閉じるかの如く描いたホイッスラーという画家の、世紀末的な侘びの情を遠く思い遣っていた。
この侘びが、最近ではなかなか味わい憎くなっている日本の現実の騒々しさを思うと、夕暮れを待つ頃合いの、今日のこの体験は、慕わしいものになった。
酒好きならば、これに感じて独り濁り酒を酌むことになろうが、酒の窘めぬ自分には、それは成らず、それさえ、己が侘びとして心中に沈潜するばかりである。
(二〇一四、一一、五)
注1 今年九月、東京六本木の国立新美術館で、「印象派の誕生ーー描くことの自由」と名付けられた『オルセー美術館展』を見に行ったが、今回も、ホイッスラーのこの母親像は出展されていた。
注2 漱石が「カーライル博物館」を書いたのは、「我輩は猫である」を書きつつあった一九〇四(明治三七)年一二月のことであり、書かれた、ロンドンのカーライル博物館を訪ねたのは、一九〇一(明治三四)年八月三日の事である。博物館は、カーライルが、一八八一年に八六歳で没するまで、四七年間過ごした四階建ての四角い自邸を保存して残した物である。
漱石は「カーライル博物館」の中で、哲学者カーライルの苦悩を「独逸の」「ショペンハウア」と対照させて回想し、その庭園に下り、カーライルがそこにテントを張って「餘念もなく述作に従事したのは此庭園である」と記し、星明らかな夏の夜彼が空を仰いで叫んだ言葉を記しているので、それを以下に紹介しておく。
嗚呼余が最後に汝を見るの時は瞬刻の後ならん。全能の神が造れる無邊大の劇場、眼に入る無限、手に觸るゝ無限、是も亦我が眉目を掠めて去らん。而して余は遂にそを見るを得えざらん。わが力を致せるや虚ならず、知らんと欲するや切なり。而もわが知識は只此の如く微なり。
尚、漱石の「カーライル博物館」は、一九〇六(明治三九)年に発行された短編小説集『漾虚集』に収録された。その時、各作品の挿絵を描いたのは橋口五葉で、「カーライル博物館」の挿絵には、カーライルの横顔が描かれているが、その横顔は、ホイッスラーのこの「トーマス・カーライルの肖像」の横顔部分を裏返しにして借用したもののように見える。