二〇一四年、今年の美術館初詣では、一月一八日の、日仏二人の画家の展覧会詣でに始まった。まず、当日午前の参詣場所は、横浜みなとみらいにある横浜美術館で、礼拝 したのは「生誕一四〇年記念」と銘打った『下村観山展』である。
下村観山と言えば、横山大観と並ぶ、東京美術学校の第一期生で、岡倉天心の下、その名を挙げた、近代日本画運動の先駆けだったはずだが、今では、大観だけが、近代日本画の中心的巨匠として、その評価の高さが不動のものとなっている。
私は、大観の展覧会に何度も出掛けたわけではないが(注1)、彼の作品に対すると、豪放といってよい彼の生涯の醸す魅力も重なって、巨匠・巨魁とまで立てられる彼の作品への肯定的評価を、否も応も無く押し付けられ、それに批判的になる鑑賞など許されないような気分に落される不快を味わわされてきたものだが、観山は、その展覧会に接すること少なかった(注2)にしろ、大観のような巨魁としてのイメージの縛りがないせいか、作品への記憶が、これまで大観のように残っていない。
確かに、大観の作品は、その大きな屏風絵や、長大な絵巻群を通じて、そこに描かれた素材の山川の姿に、その筆の暈しの技術が遺憾なく発揮され、自然というものの茫漠広大な空間的奥行きを、見事表現してきていて、それが「巨大」な画家としての評価を決定付けていることは、よく分かる。
しかし、岡倉天心の下、大観と並んで画家となった観山の作品に、巨大な画家と呼ばれるに足るような技術・描出の特徴を、私はこれまで確かめないできている。
そのため、今度の展覧会が、東京の周縁に当たる横浜で開かれるのも、巨匠であるかないかの差の結果のように見えもしたが、どうやら横浜は、画家観山がその生を託した 最も縁の深い場所だったことによるようだ。
因みに、三渓園と言えば、横浜の観光名所として逸することができない場所だが、この庭園を造った三渓こと原富太郎こそは、明治に入っての横浜経済界の立役者原善三郎の女婿として原家の家督を継ぎ、美術収集家として名を成した人物で、その三渓が、夙に岡倉天心と親しかったようで、会場に掲示されていた年譜によれば、その縁から観山に自宅の襖絵を描かせ、招いて横浜の本牧に住まわせ、ために、観山は四十歳以後横浜に居を移し、どうやら浜の人としてその生涯を終えたようなのである。
したがって、観山の作品の多くが横浜に残り、結果として、それが横浜美術館に収蔵されることになったとしても不思議はないはずで、それが観山生誕百四十年記念の展覧会を、この美術館で催させることになったらしい。
そして、その観山の作品展が、新春の清新な空気を私に 体感させたのである。桜木町の駅前から美術館までの、伝 統とか遺産とかからまるで無縁の、エスカレーターで歩む 道を辿ったことも、観山展覧会の観て歩きを、疲労とは無 縁の喜びに、私を導くこととなったようだ、この伝統とか 遺産とかを強く意識させるのが横山大観だとしたら、そこ から脱出した清涼感を、その朝私に与えてくれたのが、下村観山だったことになる。
日本の近代化が始まる明治の「文明開化」の中で、私が大観に感じ取っているのは、日本の伝統的歴史的なものへの拘りに徹した美というもので、しかも、彼の富士山に象徴されるその雄大さを備えた力の美は、私には、大観の戦 時中の軍事への協力ぶりとも相俟って、戦中の国家主義・ 軍国主義が醸成されていくニッポンと重なって見えてしま い、「巨匠・巨人」という言葉で括られる彼の作品を、肯定的に素直に受け取りにくくしてしまってきた。それに対し、観山は、会場の年譜によることだが、大戦後の一九五八(昭和三三)年に九十歳で没した大観より、六年遅い明治六年に生まれ、一九三〇(昭和五)年、六十にも至らずして没しており、それからすれば、軍国主義的浸染など、 読むことは難しくなる。
何しろ、観山が、大観と一緒に、第一回生として東京美術学校に入学したのは、十六歳の時であり、二十一歳で美校を卒業するや、美術学校長だった岡倉天心の推挙あってのことであろうが、直ちに母校の助教授に任じられたのだから、彼が、明治の新たな美術振興運動の中心的場において、公的に画家として認められた最も若い存在だったことを証かしていることになる。それが、時代の動きの中での 颯爽たる清新さを、私に印象づけることになったとしても不思議はない。そして、この展覧会で、新しい日本画の世界において、存在それ自体が清新であった観山の、仕事における清澄感を、痛烈に感じさせたのが、西洋絵画の模写絵作品四点だったのである。
むろん、その模写絵作品以前の観山初期の出展作にも、その清澄感の感取される作品が何点かあった。
中でも、「仏誕」(二×一、五メートル)は、生まれて立つ仏の幼顔よりも、仏を取り巻いて立つ菩薩たちの眼差しの幼さが、作品の若い健やかさを伝え、「闍維(荼毘の意)」(一、五×二、五メートル)は、茶毘に付される釈迦の棺を取り巻く仏弟子たちの、嘆きを越えた、自得の悼みに耐える怒りの表情が、いずれもその彫の深い顔立ちに、エキゾチックな風情を醸して描かれており、「元禄美人図(三味線図)」「元禄美人図(弾琴図)」(一、五×一、七の二曲一隻の屏風一双)では、楽器を奏でる、浮世絵的登場人物でありながら、御歯黒が伺えるふっくらした、浮世絵風からは遠い既婚の美女が、日本画的余白の美を全く否定した、金箔を張り詰め、家具を背にした空間処理の中で描かれていた。
そこには、歴史的伝統的な絵画の素材を、特にその人物像の表現において、新しく捉え直そうとする観山の志を読むことができる。
そして、模写絵に出合ったのだが、それは、よく描いてあるなといった一般的感想ではすまない、震えが来るほどの驚きを私に齎したのである。
模写絵は、三十歳の観山が、一九〇三(明治三六)年に 渡欧した際に描かれたものだったが、それは、東京美術学校教授になっていた観山が、文部省から画学研究生として 初めて命ぜられた留学だったのである。なまじ文部省の命 による渡欧だっただけに、その責任の重圧はかなりあった に違いない。その責任感が、観山の画才を介して、この出展された模写絵作品の線と色との緊張ぶりに結晶している ように見えた。
その緊張ぶりは、全て、原画のような油彩ではなく、水彩で模写されていることによっても齎されているように見えた。そこには、模写対象の油彩の原画表現を、日本画として受容しようとする意志が読み取れ、しかも、油彩の原画の方にはない日本画としての清澄感を造出し遂げているように思われたのである。
ともあれ、その一点は、ラファエル前派の代表的画家ジョン・エヴァレット・ミレーの「ナイト・エラント」の模写だった。それは、日本へも来たことのある作品で、私にも原画の印象記憶が強く残っている大作なのだ(注3)が、その絵は、縦二メートル横一メートル五〇位はあったはずなのに、眼前の模写は、一メートルに七〇センチ位に縮小して描かれていた。それにしても、旅先でこれだけの大きさに、原作を前にしながら、徹底した彩色模写を行ったことを考えると、それに要した時間を考えただけでも、やはりこの成果には、観山の相当な取り組み意欲と努力が籠っていると思い遣らねばならなくなる。
絵は、夜の林の中の大木に、長い乱れ髪を腰の辺りまで垂らして縛られている全裸の女性を、その後から、甲冑に身を固めた騎士が長剣で解き放とうとしている場面が描かれていて、木立の彼方、画面左上部には三日月がくっきり描かれている。
別の三点は、ラファエロの聖母子作品の模写で、二点は、フィレンツェのパラティーナ美術館にある、直径五〇センチを越える有名な円形の「椅子の聖母子」像を模写したものであり、いま一点は、ウフィッツィ美術館にある、一メートルに七〇センチ大の「まひわの聖母」像である (注4)。「椅子の聖母子」は原画のサイズに等しく、「まひわ」の方は、七〇×五〇位に縮小されて模写されていた。どちらもテンペラ画の水彩模写になるが、それぞれの美術館での鑑賞記憶に照らして、森全体に透明度が増し、特に「まひわ」の方では、人物のバックが聖母の足元の大地から遠景の風景部分に至るまで、色彩の濃淡が同じで、背景としての均一な清やかさは齎されたものの、原画にあったはずの近景と遠景の重量感の差は失われてしまい、その分、背景は平面化して奥行きを失っていた。
ともあれ、模写の徹底を通じて、それを徹底させればさせるほど、洋画には生じない日本画の清澄感というものを、日本画の特質として観山は学び取ったに違いない。それと同時に、西洋の絵画が、自然の風景より前にまず人物が存在し、人間が存在することによって初めてその周囲、環境としての自然・風物が存在するという認識があって、それを前提として西洋の絵画というものは、成り立っていることを知らされたはずである。
そして、それが、観山に、人物を中心に据えた絵を、大観などと比し圧倒的な力をそなえて多数描かせた事実を、 以後の展示を介して知らされることになった。
今回、その何よりの収穫が、観山の、私には最大の傑作 と言っていい、重文に指定されている、六曲一双の「弱法師」に初めて出合えたことになる。これまでその作品のことは知っていただけに期待も大きかったのだが、その期待を越えた喜びを私に送ってくれたのである。
二十年前の観山展にも、双幅の「弱法師」という作品が あり、面白い作品として印象に残っており、今度もそれは 出展されていたが、それとの比較によっても、今回の、全 面金地張りの上に描かれた屏風絵「弱法師」の大作は、見 甲斐十分な力を発揮していた。右隻の中央に、老梅の巨木 が、四方に枝を延ばして立ち、咲く花が今し散る、その幹 枝の右手奥の、散る花びらの下に、画面中央の方、左方を 向いて弱法師こと俊徳丸が立つ。綻びのある羽織りを着た モンペ姿の俊徳丸は、長い髪を背筋に下げ、盲目の閉じられた目に梅の香を嗅ぎ酔うかのごとく、笑みを浮かべるように薄く口を開け、右肩に長い杖を引き寄せ合掌しながら 立っている。その合掌の手は、左隻まで延びている梅の花枝の左先方下に描かれた、真っ赤な円い大きな夕陽に向けられている。それを観れば、この何の音もない静謐の中に、夕陽も梅も見えないままに見、嗅ぎ取っている俊徳丸の実態、それぞ「弱法師」そのものであることを描き上げているのだ。
盲目の「弱法師」の、盲目なればこそ得られる、空妄の 中の紛れのない実が、観山の描きたい観念だったのであろう。謡曲や説経節を背景にしたロマンが、この絵の奥行き と幅とを決定付けている。
本展では、他に、水墨画に近い筆捌きの、杖で足先を探り不安げに歩く「俊徳丸」の一服もあったが、こちらは「俊徳丸」という名の盲人の絵でしかなかった。
本展では、この「弱法師」以外に、左右併せて七メート ルを越すような六曲一双の屏風の大作に、七点出会うこと ができた。
その中で、人物を扱ったものとしては、「小倉山」「毘沙門天弁財天」「竹林七賢」 の三点があったが、どの作品も、金地ではないが、それに近い黄色い黄土色を絹本の地にして描かれており、中では、「小倉山」が、私には面白かった。それは、その作品が、樹木の風景画の中の一人の人間像だったからである。
樹木の風景も人物も、「弱法師」同様、右隻を中心に描かれ、樹木の一端が左隻の半ばまで及んでいる構図になっているのだ。無論、ここでもその題名からして、百人一首の「小倉山峰のもみじば心あらば」の歌を連想せざるを得ず、とすれば、そこに描かれた人物は、貞信公、藤原忠平だということになろうが、烏帽子に白い直衣姿の、鼻下と顎先に薄く髭を生やした初老の貴公子が一人、木立の影にある倒木に腰を下ろして座している。そして紅葉は、貴公子の 頭上から左隻にかけて濃淡さまざまに今を盛りの葉姿で描かれている。小倉山の秋の美が、貞信公あってこその成立であることを、良く語っている。
人物像(仏像も含む)には、当然のことながら軸が多く、その数三〇点は数えた。年代順に辿れば、「ダイオゼニス(注5)」「不動」「観音図」「維摩居士」「老子」「寒山拾得」「陶淵明」「酔李白」「豊太闇」「一休禅師」「日野資朝」「稚児文殊」「魚籃観音」「馬郎婦観音像(注6)」といった、広範囲に亙る多様な人物像が描かれていた。こういう人物の多様な軸作品を、大観展に望むことはまずできないであろう。そしてこれらの殆どが、その地が、薄明の白か黄土色の澄明の空間を、見事演出し通しており、線描に秀でた人物の表現が、その演出に乗った舞台の清澄さをそれぞれの身体によって造形していたのである。
その中で、二点あった「魚籃観音(注7)」の内の一点は、特別の観山作品として私の興味を引く傑作だった。それは三幅で一対を成す作品だったが、左幅には、二人の黒みを帯びた皮膚の、弓矢を持った男が二人描かれ、中央の軸には、その左に、胸先に右手の人差し指を上げ、左腕に魚籃を下げて、光背に包まれて立つ観音と、その右、光背の影に立つ、やはり浅黒い肌の男一人が描かれ、右幅には、左の観音を見上げる、これまた黒い毛の雑犬が一匹描かれている、そういう絵だった。男性は三人とも頭に白いターバンを巻いたインド人的顔立ちで、観音の顔に眼差しを注ぎ、観音はそれに対し、その目と口がモナ・リザを連想させかねない、白人の顔立ちで、作者が、明らかにエキゾチックな世界として、仏教的世界を刷新しようとしていることを思わせる。
その伝統的世界に込めようとするエキゾチズムこそが、 観山が自分の日本画に課そうとした理念ではなかったのか、そしてその理念を観山に埋め込ませたものが、ほかならぬ渡欧における観山の徹底した模写体験だったのだと思われてきた。
すると、重文の「弱法師」の、惚けるように長く延びた、梅花に等しい白けた顔も、伝統的美に対するエキゾチズム的刷新だったかと、改めて納得できてしまう。
と同時に、そんな彼が、戦時中を迎えたとしたら、どのような苦境を自らに背負うことになったかと、一九三〇(昭和五)年五十七歳の、その早逝を偲ぶことになったが、若し、その苦境の中で彼の理念が結実されることになったとしたら、その時こそ、観山が「巨匠」と呼ばれるに足る画家の栄誉を得ることになったであろうと、妄想する。こうして、会場の最後に、前田青邨の、死せる観山の床上の顔を描いた墨画に出合い、別れを告げた。私は、気持ち良く食べられそうな気分になっている、今日の初詣でランチを、ランドマークプラザのどの店で食べようかと考え始めている。
(二〇一四、一、二四)
注1 これまで観た『横山大観展』は二回だけである。二回目は、一九九〇(平成二)年、名古屋市美術館 で催されたものである。
2 これまで観た『下村観山展』は、「生誕一二〇年記念」と銘打ったもの一回で、今回が「生誕一四〇年記念」展なのだから、丁度二十年昔のことになる。 場所は、大阪三越七階のアートフォーラムだった。
3 これは、ロンドンのテート・ギャラリーでも観たが、二〇〇八(平成二〇)年九月に、『ジョン・エヴ ァレット・ミレイ展』が、渋谷のBunkamuraザ・ ミュージアムで催され、この作品(「遊歴の騎士」と 題されていた)も来日し出合っている。観山は、ロンドンに渡った翌一九〇四年に、ロンドンで個展を開き、このミレーの模写絵を出展したようである。
4 このうち、「椅子の聖母」の製作は、一九〇四年に なっており、この年までに、観山はまだイタリアへ 渡っておらず、この絵はロンドンのナショナルギャラリーにある原画の模作を基にして描いたものと考えられる。それに対し、「まひわの聖母」の方は、一九〇五年、フランスからイタリアに行った折りに、フィレンツェで原作を模写したものである。フランスでは「モナ・リザ」にも会い模写を行ったという。 観山の帰国は、その年の十二月である。
5 禁欲主義のギリシャの哲学者、ディオゲネスのこと。住まいを持たず樽で寝起きした逸話を絵にしている。
6 三十三観音の一。男性を教化するために菩薩が化身した美女で、馬氏と結婚し直ぐ死んだとされる。
7 前注と同じく三十三観音の一。魚を入れた籠を下げて魚商をしている美女で、羅刹・毒竜・悪鬼の害を防ぐという。