川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

胡座をかく『ミケランジェロ展』とサービスに心砕く古都『京都』展

 秋も末になった十一月七日、上野の西洋美術館に、『ミケランジェロ展』を観に行った。「システィーナ礼拝堂五〇〇年祭記念」の催しだと謳っても、その礼拝堂の天井を飾るミケランジェロの壁画のかけら一つ来る筈はなく、彼の著名な彫像の一点も、それが来るなどということは、「モナ・リザ」の来日以上に期待できぬことなのだから、「天才の軌跡」と名乗られても、その軌跡を彼の作品によって辿る喜びは、まず期待出来ない。先に、レオナルド・ダ・ヴィンチ展で、騙されたような落胆をしたからには、さらにも増して期待できず、今年、ラファエロ、ダ・ヴィンチと辿った揚げ句の、義理立てお勤め気分という、寒く塞いだ気分の見て歩きに出掛けたのである。

 予感は見事的中し、深い落胆の内に会場を後にする羽目に陥ったこと、また予定通りとなった。

 以下は、その失望苛立ちの報告ということになる。

 大体この展覧会は、その出展総数が六〇点に過ぎぬ小規模のものだったのだ。その寂しさのうち、ミケランジェロのものは半ばを越える三六点あったと言えば、申し分ない出点数ではないかと言われそうだが、我々素人にとっては、世界に名だたるミケランジェロの展覧会である以上、彼の芸術作品との出会いこそが目途となっているのに、その彼の完成した芸術作品は、何と三六点中、僅かに三点しかなかったのである。

 三点以外のミケランジェロの描いたものは、一五点の小さな素描の紙片と八点の建築物の計画の下書き図で、他は八通の手紙と一片の料理メモに一片の詩の草稿の一〇点で、それ以外は、ミケランジェロに関わる参考資料的な作品ばかりだったのである。

「システィーナ礼拝堂五00年祭記念」と銘打ってはあっても、それに因む完成した作品と呼ぶに足るものとしては、ジョルジョ・ギージ作の、一五四〇年代に版刻された「最後の審判」の、四、五〇センチの彩色のない銅版画一〇点があるばかりであった。

 ところで、ミケランジェロ作の一五点の素措は、どれも三〇センチにも充たないような小さな紙片で、その多くはシスティーナ礼拝堂の天井画のために描かれたものではあったが、人体の部位など、殆どスケッチとしての纏まりさえ欠いており、部分的断片的描きなぐりに過ぎないもので、それならば、ミケランジェロでなくても、画家ならば当然することで、従って資料的貴重さをそこに認めたにしても、私にすれば、とても作品とは言い兼ねるものばかりだった。僅かに「レダの頭部習作」という一点が、レダの横顔を目元の陰影美しく仕上げていて、この二五×三〇センチほどの一片だけが、どうにか素描作品と呼ぶに価するものだったのである。

 そんな中で、ミケランジェロの作品と言える三点は、どういうものだったかというと、一つは、五〇センチ四方ほどの大理石の板に彫られた「階段の聖母」と題した彫像で、それは、聖母が、石の階段の右寄りに左を向いて掛け、膝の上にイエスを抱き、脚をまくり乳房をイエスに含ませている様を浮き彫りにしていた。

 聖母の表情は何かを思い込んでいるように固く、その聖母子像の左、階段の上部には、戯れあっている子供が三人彫られているが、天使のようには膨られていない。そこに、ある緊張を感じることはできたが、ローマ、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂にある、あのピエタ像のような慈悲慈愛の深い優しさ、人間らしいセンチメントを見取ることはまるでできなかった。

 二つ目は、三○センチにも満たない小さな紙に石黒で、右へ首を捻って乳首に毒蛇を絡ませた「クレオパトラ」の頭部を精細に描いた習作的作品だったが、唯一これが、私にとっての本展最大の魅力作となった。その魅力は、クレオパトラの綱状に編まれた髪が、頭部に渦巻き、それが、首筋から背を巻いて胸先にまで届く曲線と、乳首に絡み食いつく蛇の曲線とが、身体に絡まり蠢くように描かれている粘着湿潤の気が、恨めしげなクレオパトラの眼差しに、よく合っていた点にあった。

 三つ目は、高さ三〇センチもなく上部の幅が一〇センチほどの木に彫られた「キリストの磔刑」像で、それは彫りが粗く、傾き伏せたキリストの顔も、その彫り影が僅かに表情を伺わせるに過ぎない体の作品で、ミケランジェロだと知れば、見捨てられても不思議ではない小さな板切れ作品に、私には見えた。

 それでも展覧会は、出展全六〇点を、格好をつけて四つの章に分け、それぞれに「伝説と真実・・・ミケランジェロとカーサ・ ブオナローティ」、「ミケランジェロとシスティーナ礼拝堂」、「建築家ミケランジェロ」、「ミケランジェロと人体」と堂々のネーミングを施して展示していた。

 そしてその最初の章では、鼻下と下顎に黒い髭を蓄えたミケランジェロの肖像画、同じような髭面の彼の横顔を刻んだ小さなメダル、例の「レダの頭部習作」と、そのミケランジェロの大作「レダと白鳥」を模倣した油彩画作品、それに、「カーサ・ブオナローティの景観」という、三階建ての何の特徴もない建物を描いた、一五×二〇センチほどの着彩したリトグラフ、「ブオナローティ家の紋章入り皿」などがあり、賑やかな佇まいを造っていた。

 ここで、ミケランジェロの姓がブオナローティであることから、三階建てのブオナローティ邸こそは、ミケランジェロが育ったフィレンツェの実家に外ならず、この章に出展していた「現レオナルド宛の手紙」四通によって、ミケランジェロの弟プオ ナローティが、この家を当主として引き継いだことを語っていた。

 つまり、この章を通じてプオナローティ邸が、ミケランジェロには欠かせない縁の深さを持った場であることを伝え、それあって、ミケランジェロの作品や資料は、このカーサ・プオナローティに収録され、今日散逸を免れて、芸術の都フィレンツェのミケランジェロを讃える美術館として日の目を見ていることを伝えていたわけである。

 何のことはない、こうして、今度のこの「天才の軌跡」展の出展物は、全て「カーサ・ブオナローティ」所蔵の物によっているらしいと分かり、唖然落胆、最早、『ミケランジェロ展』ではあっても、『ミケランジェロ作品展』ではさらになく、彼の「作品展」を企画運営しようなどという野心も努力も全く欠いた、つまりサービス精神皆無の、それだけ傲慢に見える展覧 会であることを知らしめられることになってしまったのである。

 私は、これ以上、この展覧会にかかずらうのが面倒臭くなってしまった。

 止めようと思う。

 私は、気分をからっと変える必要がある。

 それには、まず気持ち良く食事を取りたい。上野では、やはり精養軒だから、私は文化会館の二階にある精養軒へ行った。珍しくあまり待つ事なくテーブルに案内されて、ランチを取った。スープに、魚のグリルと牛肉のシチューを食し、コーヒーを追加して喫すると、一時間程が過ぎ、気分が静まり気持ちにゆとりができた。

 その気分のゆとりを抱くようにして、私は、国立博物館に行く。その平成館で「洛中洛外図と障壁画の美」を謳った『京都』展が催されているからだ。

 その内容のあらましは、NHKの「日曜美術館」によって分かっており、それは、私の好奇心を刺激するに充分なものだったのである。

 チケットを求め、バッグをロッカーに預けて、中央の受付からエスカレーターで二階に上がると、左手に入り口が待つ。入ればそこが第一会場で、「洛中洛外図」四点、どれも六曲一双の大作である屏風絵の展示場になっていた。因みに、「洛中洛外図」は、今度の「京都』展では、国宝一点、重文六点の全七点が出品されたのだが、前期・後期に分けて、その中の四点ず つがそれぞれ展示されることになっており、私の行った日は後期だったから、最も古い室町時代の「歴博甲本」、岩佐又兵衛筆の「舟木本」、一寸小ぶりな「福岡市博本」、「舟木本」と同時期に描かれたと認められる「池田本」の、重文の四点に見えることになった。

 出展作は、展示ケースの中、ガラス越しに、一作ごと順次見て行くことになるが。その六曲の屏風一隻の身の丈は、凡そ一、五メートル、身幅は三、五メートルはあって、その一双は優に七メートルを越える大作を、右手から、四つの「洛中洛外図」にわたって見て行くのだから、それを辿り見るだけでも相当な作業になる。しかも、描かれた洛中洛外の光景は、その建造物や自然の俯瞰的静止的光景としてではなく、そこに住まい動く様々な階層の人物たちが試みる、彼らの行事や仕事ぶりから日常の暮らしぶりに至るまでの、細かな世相の動的な光景として捉えられているのだ。その人事的様相の一々を目に確かめて行くことは、身の丈一、五メートルに納められた京の外形の画面中では、難儀の一語に尽きるというものだ。しかも、金屏風の中の京の街の生きた様相は、それが細密な表現に結晶しているだけに、そんなにまで細かに表現する作者の拘りにも引かれて、見過ごしがたくなる、というのも人情というものだ。

 その人情を汲んで、本展の主催者は、四つの作品の、それぞれ何箇所かを拡大して写し切り取って展示し、観客に見やすく提示していた。

 中でも「舟木本」は作者が岩佐又兵衛で、千葉で観た又兵衛の絵巻の色鮮やかな表現の鮮烈な印象が残っていて(注1)、その出来の際立った絢爛振りが大いに期待されるところだったが、そこは主催者は心得たもので、この「舟木本」の一双十二曲については、三曲ずつ四面に分け、一面を四メートル四方の スクリーンに拡大して、それを黒く長い壁面へ、四面で投影して見せたのである。

 それによって、「方広寺大仏殿」「三十三間堂」「清水寺」「五条大橋」「東寺」「六角堂」「西本願寺」「御所」「二条城」の名所の人の出入りや行事、「四条河原」の遊女歌舞伎や人形浄瑠璃、「六条三筋町」の遊郭街の繁盛、寺町から四条通へ進む「祇園祭」の南蛮人の扮装や母衣武者姿などの大行列、「五条新町」の呉服屋をはじめとする商店街の賑わい等が、見やすく拡大し写し取られて、すべての場所に登場する数多の人々の姿が、まさしく岩佐又兵衛独自の顔立ちで、見事つぶさに描かれている所まで細見できたのである。

 この作品鑑賞に便宜を図った「洛中洛外図」の前半に続いて、後半は「都の空間装飾」と銘打った「障壁画」の展示になったのだが、前半が、京の都の地理的全体的観光案内と宣伝の効果を持つ絵画であるのに対して、後半は、その「洛中洛外図」に登場した京の都の個別的建築空間の、それも一般市民の見聞適わぬ特殊な建築空間における障壁絵画の見物ということになった。

 そして、その京における特殊な個別的場として選ばれたのが、宮廷と寺院と城郭の三箇所だった。宮廷は、御所の紫宸殿や仙洞御所等を飾った障壁画と襖絵、寺院は、南禅寺の方丈の襖絵、城郭は、二条城の二の丸御殿の黒書院や大広間の襖絵・障壁画が、それぞれ金箔の地に描かれた金蘭の輝きを今に残し伝えて展示されていた。

 まず、御所の紫宸殿の壁を飾っていた狩野孝信の「賢聖障子絵」に出会う。古代中国の聖人賢者の二人ずつ並立する計十体の人物像が並んでいたのだが、ほぼ等身大の背丈で描かれたそれは、筆の線も色彩も鮮やかに残っていて、一体一体、カみこそないが力のある表現になっていて、私には初めてのものだけに、なかなかに魅力的だった。

 次いでは、仙洞御所の寝殿の襖絵だった狩野永徳の「群仙図襖」があり、一面が縦一間横三尺の襖の一七面からなる、長さが一三メートルに及ぶ大作だったが、樹木や人物の色の剥落がひどく、地の金箔の名残に覆われ、本来のその美を想像する事も面倒になってしまう、こちらはそんな作品だった。

 この御所を飾った障壁画に次いでは、寺院を飾ったものとして、龍安寺の二つの方丈を飾る、あるいは飾った、一八面の襖絵が展示されていた。作者は、狩野永徳以後の画家だとは推測されているが、誰かは不明のようである。  

 このうち四面の「群仙図襖」と二面の「琴棋書画図襖」は、今も竜安寺を飾っているのだが、残りのそれぞれ四面からなる襖絵は、メトロポリタン美術館からの「列子図襖」と「琴棋書画図襖」、シアトル美術館からの「琴棋書画図襖」という、アメリカの美術館からの里帰りの出展になっていた。

 これらの全ては保存状態がよく、金箔中の線描着彩も鮮やかで、私には特に人物の表現が興味深く、その美を楽しむことができた。

 そして止めは、二条城の二の丸御殿の襖絵の展示になるのだが、その黒書院一の間と二の間、それに大広間の四の間の三つの部屋を、四メートル近い高さで立体的に再現し、建てられたその壁面に、それぞれの部屋を飾る金蘭の絵を、凡そ、長押の上下二段に分けて、それぞれの位置に展示してあったのである。造られたその部屋空間は、一メートルはあろう展示台を床面として建ててあったから、我々は、五メートルはあろう壁面の高さで障壁画を仰ぎ見て鑑賞するようになっていたのである。辿る展示場の広さに大きさを感じることはなかったが、見上げることによる金襴の絵の持つ威厳を、二条城の美として納得せざるを得ないようになっていた。

 ただし、狩野探幽の描いた大広間の「松鷹図」の松の巨木の深い緑の豊かさの見事さ以外は、狩野尚信筆になる書院の「松桜柴垣禽鳥図」「桜花雉図」「楼閣山水図」の作品は、どの花も鳥も細々として色褪せて、やはり色褪せた金箔の地に飲まれて力を失い、見甲斐を失っていた。

 ともあれ、美術展の展示空間に対する演出が、ここまで来たかと驚き、と同時に、この鑑賞の一驚を得て、会場の造られた大展示空間から、自然光の明るいロビーへ解放されると、その解放される喜びまでが演出されていることに気づくことになった。

 なかなかやるなァと、私は内心で呟く。ミケランジェロ展のひどい応接があったからこの感慨は大きい。

 そして、この「やるなァ」は、買い求めた図録にも示されていた。

 値段は通常の図録並だが、A四版の布装の手触りを持った黒い厚手表紙の二百三十ページからなるもので、それが、所謂ブックケースではない、白い段ボール箱に納まっているのである。箱の上部が四角く切り取られ、そこに「洛中洛外図と障壁画の美」と銘打った『特別展京都』の表紙の文字が覗ている。しかも、白いボール箱の底には、出展された八点の「洛中洛外図」 が一点毎に縦三十センチの屏風図版として印刷され、一点毎に縦三十センチの屏風図として印刷され、一点毎に広げて見ることができるように畳まれて納まっていたのだ。無論、それは図録の印刷図とは別のサービス品なのだ。

 私はその些か重い白い図録の箱を、重さを忘れて下げることが出来たのである。

(二〇一三、一一、一六)

 

 

 

 注1 岩佐又兵衛のことは、「絢爛! 絵巻又兵衛」と題して、『緑』二〇〇六年五月号(No.517)に発表した。

 

 

 追記

 帰宅後、今度の展覧会の図録を整理していたら、ミケラ ンジェロの展覧会は、既に一九九六(平成八)年、京都三条烏丸で見ていたことが分かって、呆気にとられた。その展覧会は、「カーサ・ブオナローティ所蔵」と断ってあるほかは、タイトルに何の宣伝語句も付加されていない『ミケランジェロ展』だったのである。

 この一九九六年の出展作品と、今回の出展作品の大半が 重複していて、内容的には相似た『ミケランジェロ展」を、私は、二度見たことになるのだが、今回の展覧会を見て、二度目の再見になっているなどと、露思いもしなかったのである。これを私は、己の惚けのせいに帰するよりも、そもそもの「ミケランジェロ展』が、全く記憶に残らないほどの、何の響きも与えないつまらないものだったことを証すものだと判ずることもできる。ついでながら、一七年前の展覧会が、本邦初の総合的なミケランジェロ展であり、その出展はすべて本邦初公開だったということである。

 つまり、今度の展覧界は、殆ど同じ物を持って来ての再 演で、全く新鮮味を欠き、その意味で、一七年の時の移ろいに胡座をかいた出稼ぎミケランジェロ展だったことになる。また一七年前の展覧会では、ミケランジェロ作品を補うために、「若い奴隷」「ロンダニーニのピエタ」「ケンタウロスの戦い」等の代表作一〇点の原寸大の型取り作品を展示して、観客への配慮を見せていたのである。

 因みに、『ミケランジェロ展』を主催した新聞社は、前 回が京都新聞、今回が朝日新聞である。

 

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