川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

画惚眸美術展回遊記(一)

二枚のオフィーリア

 

 その絵が来ていると知って、二〇〇〇年の初夏、私は東京の安田火災東郷青児美術館ーー今は、損保ジャパン東郷青児美術館と改称されているーーへ会いに行った。その絵とは、「ラファエル前派展」に出品の、マンチェスター市立美術館所蔵になるアーサー・ヒューズの「オフィーリア」、予てから会いたいと切望していた「オフィーリア」像の一点である。

 私が「オフィーリア変奏」と題して、「緑」の匹百号突破記念「センリュウトーク」でお喋りをしたのは、一九九七年十月のことだった。その時お喋りの資料として紹介したオフイーリアの絵は七点、そのうち、ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」だけは、美しくカラーで印刷された物だった。丁度、翌九八年一月から「デート・ギャラリー展」が東京都美術館で予定されており、その最大の目玉出品が、「ミレーの「オフィーリア」ということもあって、宣伝用チラシにそれが大きく印刷されていたのだが、そのチラシを「緑」の係の人が巧く入手して下さったのである。

 無論私は、翌年早々、このミレーの絵との二度目の逢瀬にときめいて東京へ出掛けた。一体、私にとって、ミレーの「オフィーリア」は、半世紀に亘って会うことを密かに願い続けてきた、心の恋人だった。なぜそういうことになったのか。それは高校時代に見た映画、ローレンス・オリヴィエ監督の『ハムレット」のオフィーリアに心奪われたことに端を発している。オフィーリアを演じたのはジーン・シモンズだったが、水に浮かぶジーン・シモンズ=オフィーリアの映像の可隣さに私は虜になり、その少女を水の流れが私から奪い去るように錯覚されて、私の、水に去り行くオフィーリアへの溺情を決定的にすることになった。その上でミレーの「オフィーリア」を知ることになったのだが、絵のオフィーリアは、映画のオフィーリアのように私の視界から勝手に流れ去ったりはしない。ただ恨むらくは、ミレーの「オフィーリア」は、ジーン・シモンズのように可隣とは言い難く、大人の美女に描かれていることだ。

 振り返れば、私の海外旅行は一九九五年夏、ロンドンとパリに行くことから始まったのだが、ロンドンへ行ったら、是非ともテート・ギャラリーを訪ねて、長の年月恋い焦がれてきたミレーの「オフィーリア」に会おうと、大袈裟な言い方だが、心に決して出掛けたものだ。天井が高く人気のないテート・ギャラリーの一室に、その絵は、ラファエル前派の他の絵と一緒に、特別扱いをされるわけでもなく、さりげなく掛けられていた。広い館内を尋ね得て、絵の前に立った時、絵が、画集で感知していたより遥かにシャープな輝きをもって目に飛び込み、さーっと目が洗われたようになった、あの衝撃は今も忘れられない。オフィーリアの人よりも、彼女を取り巻く、細やかに描かれた緑や水やそれに浮かぶ花の輝きの方が、瑞々しい新鮮さをまず視覚に訴えた、その爽やかな体験...。画集では画面が小さいから、水に横たわっている中心のオフィーリアに、初めから目が行ってしまっていたのだが、七六×一一二センチの実物の前では、目が絵の全体に反応してからオフィーリアに焦点が絞られたのではないかと得心され、それがあってこそ、オフィーリアが水に吸い寄せられ呑まれていく効果も生まれるのだろうかと納得した。画集の小さな印刷画面からだけでの錯覚に根差して育まれてきた恋心が、本物を前にした視覚効果の生々しい恋情に飛躍変貌してしまっていた。そして、この絵の同じ輝きに、百年前、漱石も出会ったのだと、その時、ちらとそれが頭を掠めたことを思い出す。そして二年後、私は、『オフィーリア変奏』の中で、ミレーの「オフィーリア」が漱石に与えた影響について、『草枕』の那美さんの表現などに、それが結晶していることを紹介したのだった。

 しかし、ミレーの「オフィーリア」との東京都美術館での二度目の逢瀬は、テート・ギャラリーとは打って変わって、観客の熱気の中だったため、私の秘め事の楽しみを消してしまい、緑と水の色の鮮やかさに、最初の逢瀬体験の紛れのない素晴らしさを確認するに止まった。私は自分の印象の打ち砕かれなかったことにホッとした。

 一方、それ迄、私はミレーを初めとするラファエル前派についての展覧会を幾つも見る機会があった。「ラファエル前派とその時代展」(一九八五年、愛知県美術館)、「ラファエル前派とオックスフォード展」(梅田大丸ミュージアム、一九八七年)、「ヴィクトリア朝の絵画」展(梅日大丸ミュージアム、一九八九年)、「英国国立ヴィクトリア&アルバート美術館展」(梅田大丸ミュージアム、一九九〇年)などがそれであるが、こうした展覧会の図録に掲載されたラファエル前派史には、ミレーの「オフィーリア」と並んで必ずやアーサー・ヒューズの「オフィーリア」が、写真入りで紹介されていて、それが英国近代絵画の代表的な一点であることを物語っていた。加えて、ミレーとヒューズの「オフィーリア」が、共に一八五二年のロイヤル・アカデミー展に出展された奇縁をも併せ伝えていた。私は、何度も小さな半円形の絵のモノクロ写真に出会う内に、摘んだ野草を胸元に抱くように手にして、水際に横たわるように立つ大きな柳の根方に、こちらを向いて掛けているアーサー・ヒューズの「オフィーリア」が心に焼き付けられていった。写真の小さい分だけ、オフィーリアが可憐に想像されもして、私の慕情がいや増しに募る羽目になった。そこに、『ラファエル前派展』の朗報である。「オフィーリア」を見るに、ミレーだけでは片手落ちと言うものだったのを、その手落ちが償えるというのである。

 その「オフィーリア」に私は会った。四角い金色の額面が半円形に削られて、六〇×一二〇センチほどの絵が嵌められていたのだが、私の目は、間違いなく絵の真ん中のオフィーリアに釘付けになってしまった。オフィーリアの周囲にはほとんど目が行かないでいる。目を遣ろうにも、遣る目を受け止めてくれるものが描かれていないと言ってよい。はっきり描かれているのはオフィーリアと、彼女の掛けている柳の根方、やがて彼女を呑み込むであろう根方の下の水面ぐらいである。後は辺り一面を覆う草むらや右手に数本の木立が描かれているのだが、ミレーの絵の、オフィーリアを取り巻く水や草や木の、微細均等な描写と比べると、凡そ細密な描写から遠い曖昧朦朧と化した筆捌きで、否応無くオフィーリアに視線が収斂する仕組みになっているのである。とりわけ彼女の背後には、薄暗くガランとした虚無の空間が広がり、釘付けにされた目に或る寒さを伝える。その寒さに相応しく、オフィーリアは血の気の失せた青白さで描かれ、純潔の徴としての着衣の白までが禍々しく寒い。その着衣の膝の辺りと、下へ垂れた右腕のけざやかな白さに対して、顔は面伏せに蔭暗く描く手練の技。しかもその顔立ちは、私の期待以上の少女の可憐さである。それが、冥界に誘い込まれんばかりの痴れた面差しで描かれている。うーん、いい顔をしている、そう私は呟いた。遠い昔、初めて私をオフィーリア狂いにした、あのジーン・シモンズの可憐さをこれは越えていた。シモンズの顔が、水に浮かんでも所詮この世の相貌でしかなかったことが、これを見ると分かってくる。恰も、この世のものでなくてなお現実の顔以上に現実を実感させる能面の女のような不思議が、このオフィーリアにはあった。

 そしてこの実感には、それを裏付ける私自身の知見があることを私は察していた。それは、横たわるように生えた太い柳の根方に腰掛けるオフィーリア像を描いた、二つの絵を既に見ていたことである。一つは、九三年、奈良の近鉄百貨店での『西洋絵画の中のシェイクスピア展』に出品されていたリチャード・レッドグレープの「花輪を編むオフィーリア」(ミレーとヒューズの作品より十年前の一八四二年作、ヴィクトリア&アルバート美術館所蔵)という作品であり、今一つは、九八年、静岡県立美術館の『英国ロマン派展』に出展されていたジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの「オフィーリア」(一八九四年作、個人蔵)という作品である。

 二つの作品のオフィーリアは、この世の美しい女性として描かれていた。とりわけレッドグレープのオフィーリアは、正面を向いて掛けている図柄からしても、背景が暈されている点からしても、ヒューズのオフィーリアと似ているのだが、空虚な寒さや、この世のものならぬ可憐さからは遠い。私はそういう比較の対照を通じて、今度のオフィーリア像に感じ入っていたのである。

 私はヒューズのこの絵が、ミレーのそれと並んで、ラファエル前派を代表するオフィーリア像として、もっと知られていいと思った。その不思議な可憐さのためにも...。

 と思ってから、もう四年が経ち、『緑』は五百号に達しようとしている。そして、私はもう会いたいオフィーリア像を持っていない。

(二〇〇四、八、一四)

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【この美術展回遊記は筆者提出の原文どおりです】

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